五箇伝

五箇伝(五ヵ伝、五ヶ伝)
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五箇伝(五ヵ伝、五ヶ伝) 五箇伝(五ヵ伝、五ヶ伝)
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五箇伝とは、「大和伝」(奈良県)、「山城伝」(京都府)、「備前伝」(岡山県)、「相州伝」(神奈川県)、「美濃伝」(岐阜県)のこと。この5つの地域に伝わる日本刀作りの伝法は、独特であると同時に、優れた技術を互いに共有し、発展したのです。以下、五箇伝と呼ばれる、伝法の歴史と特徴をご紹介します。(※なお「五箇伝」は、「五ヵ伝」「五ヶ伝」と表記する場合もあります。)

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大和伝「大和伝」質実剛健なつくりと寺院の深い関係性

大和伝

大和伝

大和伝」は、大和国(現在の奈良県)に伝えられた鍛錬法です。

飛鳥時代の701年(大宝元年)、文武天皇のもとで日本初の本格的な法律「大宝律令」が完成し、この大宝律令により、刀の(なかご)に作者名を入れることが義務付けられるのです。祖は「天国」(あまくに)で、天国と初めて(めい)を切ったため、直刀ではなく、反りのある鎬造の日本刀を作った最初の人物、と崇められるようになりました。

さらに奈良時代の710年(和銅3年)、元明天皇が平城京(大和国)に都を移すと、国家の保護を受けて仏教が発展します。「大和五派」と言われる「千手院」(せんじゅいん)、「尻懸」(しっかけ)、「当麻」(たいま/たえま)、「手掻」(てがい)、「保昌」(ほうしょう)の5つの寺院の門下にて、大和伝が繁栄していきました。

同じ時期に隆盛した「山城伝」のように垢抜けした高尚優美な太刀ではなく、寺院のお抱え鍛冶として上品味はあるものの、僧兵が使用するための素朴な実戦用に徹し、代々伝承して栄えた刀工集団なのです。

寺院と密接な関係を持っていた大和伝は、寺院の衰退と共に消滅し、また寺院の勢力の復活と共に再生します。鎌倉時代以降は旧制度の寺院との関係を維持することができなくなり、時代に乗ることができませんでした。室町時代中期には地方の豪族を頼って、美濃、北陸などに分散し、消滅しました。

大和伝の日本刀
大和伝の日本刀をご覧いただけます。

大和伝の日本刀

天国(あまくに)
小烏丸(こがらすまる)/天国作
平家の重宝。鋒/切先両刃造り。諸説あるが、小烏が桓武天皇に1振の太刀を落としたことに由来する。
小烏丸
小烏丸
-
鑑定区分
御物
刃長
63
所蔵・伝来
平貞盛 →
明治天皇
皇室
千手院派(せんじゅいんは)
住居は、奈良県の千手谷から970年(天禄元年)に現在の東大寺三月堂の北面に移されました。沸本位直刃に小乱が交じり、焼幅が狭く地鉄が麗しい作柄です。

無銘 千手院(むめいせんじゅいん)
直刃調で浅くのたれて、小のたれ・小乱れなどの交じえ、総体に砂流しかかり、金筋・沸筋長く入る。

無銘 千手院

無銘 千手院

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
無銘 特別重要刀剣 2尺3寸9分 刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
尻懸派(しっかけは)
東大寺の裏側に当たる土地。大和国の葛城山の麓から招かれました。則弘(のりひろ)が祖。沸本位、中直刃に小乱、互の目乱れが交じり、焼幅が狭くなっています。

無銘 尻懸(むめいしっかけ)
刃文は直刃を焼いて、小沸がよく付き、ほつれ打ちのけ二重刃等の景色を見せています。

無銘 尻懸

無銘 尻懸

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
無銘 重要刀剣 2尺2分 倉敷刀剣美術館
当麻派(たいまは/たえまは)
奈良県北葛城郡当麻町の当麻寺に所属していた鍛冶。「当麻国行」(たえまくにゆき)が祖。焼幅が狭く、沸本位、中直刃ほつれ、直刃丁子乱が交じります。刃縁の内側に食い違い、打ちのけ、二重刃。沸足が入っています。

無銘 当麻(むめいたいま/むめいたえま)
直刃調、互の目交じり、食い違いあり、匂深く沸よく付き、上半特に沸強くなり、入り、金筋、砂流し頻りにかかる。

無銘 当麻

無銘 当麻

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
無銘 特別重要刀剣 2尺2寸8分 刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
手掻派(てがいは)
東大寺の西の正門、天磑門の門前。天磑が訛って、手掻に。初代「包永」(かねなが)が祖。大和物では一番作品が多く現存する。焼幅が狭く、沸本位、直刃が基本。ほつれや打ちのけ、二重刃、沸足が入ります。

無銘 手掻(むめいてがい)
刃文は細直刃に小足入り、金筋交じり、沸よくつく。刃縁ほつれて砂流しかかる。

無銘 手掻

無銘 手掻

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
無銘 重要刀剣 2尺2寸7分 倉敷刀剣美術館
保昌派(ほうしょうは)
大和国高市郡にありました。鎌倉時代末期、「国光」が祖。純然たる柾目鍛えの伝法。焼幅が狭く、沸本位、細直刃で焼が締まらず、打ちのけ、二重刃の状態が小さく、鋩子に荒沸が付いて、盛んな掃掛になっています。

無銘 保昌(むめいほうしょう)
刃文は直刃で小沸がよく付き、ほつれごころ・打のけ・細かな砂流し、地刃共に冴えるなど、保昌派の特色がよく表れている。

無銘 保昌

無銘 保昌

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
無銘 特別保存刀剣 2尺1寸3分 倉敷刀剣美術館

大和伝の特徴

場所 大和国(現在の奈良県)
隆盛期 平安~鎌倉時代で「五箇伝」の中で最も古い。
姿 長寸で反りが深く身幅が狭く小鋒/小切先。鎬幅が広くしっかりしていて実用的。
鍛肌 柾目肌(木を縦に切ったときの模様に似た物)が多い。
焼入 沸本位(中くらいの粒で構成されている)
刃文 直刃または直刃ほつれ。刃縁に二重刃、喰い違いが見られる。

山城伝「山城伝」京の優美さの象徴である日本刀

山城伝

山城伝

平安時代の794年(延暦13年)になると、桓武天皇は平安京(現在の京都府山城)に都を移します。この遷都とともに大和伝は衰退します。

代わりに繁栄したのが「山城伝」です。祖は「三条小鍛冶宗近」。「三条」、「五条」、「綾小路」、「粟田口」(あわたぐち)、「来」(らい)、「了戒」(りょうかい)、「信国」(のぶくに)一派で、山城伝というひとつの伝統を築きます。

山城伝の特徴は、とにかく優美で気品に満ちているということ。これは、山城伝が天皇や朝廷に仕える貴族のオーダーにより作刀されていたためです。姿・形の美しさに重点が置かれ、実戦の技術(切れ味、折れにくさ等)は、全く問われませんでした。しかし平安時代末期になると、地方豪族の進出や皇位継承問題にからまる内紛が起こり、山城伝は実戦に耐えられる技術が必要となります。そこで、大和伝や「備前伝」(びぜんでん)、備中など技術に優れた地方鍛冶を招致します。美しいだけではなく実戦の技術を加味した山城伝の礎を作るのです。

鎌倉時代初期には、後鳥羽上皇御番鍛冶制度が設けられ、山城伝も粟田口一派から多くの刀工が選ばれました。また来派は鎌倉武士が好む豪壮な太刀を作り、受注制作が成功。粟田口一門を凌ぐほど人気が出ます。そして、鎌倉時代後期には「国重」が「正宗十哲」のひとりとなり、相州伝を取り入れますがあまり振るわず、室町時代になるころには衰退しました。

山城伝の日本刀
山城伝の日本刀をご覧いただけます。

山城伝の日本刀

三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)
三日月宗近(みかづきむねちか)
打ちのけが、まるで三日月のように見えることから命名された、「天下五剣」の中で最も美しい太刀。
三日月宗近
三日月宗近
三条
鑑定区分
国宝
刃長
80
所蔵・伝来
足利家 →
徳川秀忠 →
東京国立博物館
三条一派(平安時代中期)
祖は三条小鍛冶宗近(むねちか)で、住居は京都・三条。優美さと気品に満ちた作柄です。地肌は小杢目肌で刃文は小沸本位。直刃に小乱。刃中に乱れ足、三日月風の打ちのけ、二重刃、三重刃が盛んに入ります。宗近の子「吉家」の時代に、やや浅い腰反りが加わり、鋒/切先は猪首風に詰まったしっかりした姿になりました。

太刀 銘 宗□ 伝宗近/三条小鍛冶宗近作
小浜藩城代の酒井内匠介忠為が、若狭一の宮(若狭彦神社)に病気平癒で祈願をし、本復の御礼で奉納した物。

太刀 銘 宗□ 伝宗近

太刀 銘 宗□ 伝宗近

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
宗□(伝宗近) 重要文化財 2尺6寸1分 東京国立博物館
五条一派(平安時代中期)
祖は「五条兼永」(かねなが)で、子の「国永」と共に五条派を樹立しました。住居は京都・五条。三条一派とよく似ていますが、京反りが深く小沸本位に直刃小乱です。兼永の物は焼幅が広く、大丁子風乱れ。刃中には稲妻、金筋が交じります。沸本位で三条派よりも焼幅がしっかりしていて、稲妻、金筋が盛んに現れ、華やかな作柄です。刃縁には二重刃や打ちのけはありません。

鶴丸国永(つるまるくになが)/五条国永作
消失された拵に「鶴」の文様があったそう。織田信長、伊達家家宝、御物となった名刀。
鶴丸国永
鶴丸国永
国永
鑑定区分
御物
刃長
78.6
所蔵・伝来
織田信長 →
藤森神社 →
伊達家 →
明治天皇 →
宮内庁
粟田口一派(鎌倉初期)
大和国の興福寺に属していた具足師の「国頼」が山城国の粟田口に移住。国頼の子、「国家」が祖と言われているが作刀が存在しておらず、その子である国友、久国、国安、国清、有国、国綱が「粟田口六兄弟」と呼ばれ、実質上の開祖と言われています。

小沸本位の焼幅の狭い直刃か直刃仕立てに小乱れが交じます。地肌の奥底から湧き出たような沸で梨子肌。樋や彫刻が多く、地鉄を「梨子地肌」に鍛え、優美な太刀姿を残したままで鎬幅が広く、長さや重ねなどすべての点でバランスが良い強い太刀を生み出します。

鬼丸国綱(おにまるくにつな)/粟田口国綱作
北条時政を病床で苦しめていたを切り落とし回復に導いたという逸話がある。
鬼丸国綱
鬼丸国綱
國綱
鑑定区分
御物
刃長
78.2
所蔵・伝来
北条時頼 →
新田義貞 →
斯波高経 →
足利家 →
織田信長 →
豊臣秀吉 →
徳川家康 →
皇室
綾小路一派(鎌倉時代中期)
住居は京都・四条大路の綾小路。祖は「定利」です。優美で古雅味のある山城伝です。小沸本位の小乱れの中に互の目風の丸い乱が2つほど入ります。刃縁に打ちのけ、二重刃や飛焼風、柾目肌が交じるのが特徴です。

太刀 銘 定利/綾小路定利作
徳川家綱が日光参りをした際に、岩槻城主阿部正邦に与え、明治天皇に献上された名刀。
太刀 銘 定利
太刀 銘 定利
定利
鑑定区分
国宝
刃長
78.7
所蔵・伝来
徳川家綱 →
岩槻藩阿部家 →
明治天皇 →
東京国立博物館
来一派(鎌倉時代中期)
粟田口と並ぶ二代流派です。世々京西ケ丘が住。祖は高麗(現在の韓国)の帰化人である「国吉」で、一見では山代物に見えない物と山城風の二様があります。

「来映り」という映りや荒めの沸が付きます。来肌(青黒味)で、沸本位のたれ乱に丁子乱が交じります。乱の頭に沸が懲り、蕨の頭を見るよう(蕨手乱)で、刃中に力強い沸足が入ります。彫刻が上手く強みのある豪壮な姿になっています。

実際に切れ味を試してランク付けをしたという江戸時代の書物「懐宝剣尺」では、「来国俊」が「大業物」の評価を受けるまでになりました。

太刀 銘 国俊(たちめいくにとし)/来国俊作
身幅が広く、猪首鋒/猪首切先となった太刀姿で力強い。

太刀 銘 国俊

太刀 銘 国俊

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
国俊 重要文化財 2尺4寸8分 東京国立博物館
了戒一派(鎌倉時代後期)
了戒(りょうかい)は来国俊の子で了戒一派の祖です。太刀は細身で反りが強い優しい姿で、地刃は来国俊に似るが、地鉄に柾気を交じえたり、匂口うるみごころとなる。

無銘 伝了戒(むめいでんりょうかい)/了戒作
板目が流れて柾目肌が現れ、刃文は直刃にほつれごころが交じり、小沸づき冴えている。

無銘 伝了戒

無銘 伝了戒

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
無銘 重要刀剣 2尺3寸1分 倉敷美術館
信国一派(南北朝時代)
「了戒久信」の子、来国俊のひ孫。京・堀川住。「貞宗三哲」のひとりで、彫刻を得意としていました。

一期一腰(いちごひとこし)/信国作
銘文「一期一腰応永卅二二年二月日」に由来する日本刀。

一期一腰

一期一腰

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
奉富士本宮
源式部丞信国
重要文化財 1尺4寸5分 富士山本宮
浅間大社
長谷部一派(南北朝時代)
「正宗十哲」のひとりに挙げられた「国重」が祖で、信国一門とその繁栄を競いました。鎌倉時代は、住居が鎌倉の長谷(はせ)でしたが、鎌倉幕府の崩壊と共に京の有力者を頼って中央に進出します。京五条猪熊に定住して繁栄しました。

山城伝の異端者で、相州伝が濃く、大板目肌に大柾目が交じります。また身幅が広く、重ねが薄く、鋒/切先が延びているのが特徴です。

へし切長谷部(へしきりはせべ)/国重作
織田信長が、粗相をした茶坊主を茶簞笥ごとへし切ったという逸話がある日本刀。
へし切長谷部
へし切長谷部
長谷部国重本阿
(花押)
黒田筑前守
鑑定区分
国宝
刃長
64.8
所蔵・伝来
織田信長 →
黒田官兵衛 →
福岡市博物館

山城伝の特徴

場所 山城国(現在の京都府)
隆盛期 平安~鎌倉時代
姿 腰反り・輪反りが見られる。優雅で気品に満ちている。
鍛肌 小杢目肌。粟田口派は梨子地肌。
焼入 小沸(小さい粒が現れている)。
刃文 直刃調で、中には小乱が交じる物もある。

備前伝「備前伝」日本刀史上における最大派閥

備前伝

備前伝

備前伝のルーツは、平安時代中期の987年(永延元年)から始まる「古備前」鍛冶です。「友成」を祖とし、この技法を受け継いで、鎌倉時代中期の1208年(承元2年)、後鳥羽上皇のもとで御番鍛冶になった「則宗」を始祖とする「一文字」一派が生まれ、1238年(暦仁元年)には「光忠」を祖とする「備前長船」一派が生まれます。

備前伝は、このように時代の波に乗るかのように名匠が生まれ、見事にバトンタッチされてきました。さらに鎌倉時代末期になると、備前長船では「兼光」と「長義」が、流行していた「相模国」の「五郎入道正宗」に相州伝を学び、「正宗十哲」(まさむねじってつ)にも選ばれます。さらに、「元重」は「正宗」の子「貞宗」に学び、「貞宗三哲」(さだむねさんてつ)と呼ばれるようになり、「相州備前鍛冶」が完成します。

室町時代には、将軍足利義満によって行なわれた「日明貿易」の主要輸出品に選ばれることに。戦国時代になると、「数打ち物」と呼ばれる、刀の大量生産をこなし、益々繁栄していきました。

このように備前伝は古備前、一文字、備前長船と、優秀な刀匠によって上手く伝法が引き継がれ、改革され、長い期間に亘って繁栄を続けました。しかし天正18年(1590年)8月吉井川の大洪水と熊山の山津波が起き、長船、畠田、福岡の地は一瞬にて水没。備前伝は消滅します。

備前伝の日本刀
備前伝の日本刀をご覧いただけます。

備前伝の日本刀

兼光(かねみつ)
福島兼光(ふくしまかねみつ)/兼光作
福島正則広島城主になった際、本覚寺から没収し手に入れた。庵棟、佩き表に草の剣巻き竜、裏に梵字が3つある。

福島兼光

福島兼光

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
備州長船住兼光
/観応□年
八月日
重要文化財 2尺5寸3分半 東京国立博物館
古備前(平安時代中期~後期)
古備前の刃文の特徴は、匂本位で焼幅が狭く自然で優美な小乱に、小丁子乱が交じり、必ず小沸が肌目に付くところです。備前物で小沸が付くのは、この古備前だけです。古備前は「友成系」と「正恒系」に分かれ、友成系は棒樋などの彫刻が多く、鋩子(ぼうし)は古備前鋩子か二重鋩子。特に友成系の高平、包平、助平は、「三平」(さんひら)と呼ばれ、名工と称されています。

なかでも包平の太刀は、時の将軍源頼朝が愛用していたことでも有名です。

太刀 銘 備前国包平作(名物大包平)/包平作
堂々とした大太刀。現存する日本刀の中でも最高傑作と言われる、国宝中の国宝。
大包平
大包平
備前国包平作
鑑定区分
国宝
刃長
89.2
所蔵・伝来
池田輝政 →
独立行政法人
国立文化財機構
(東京国立博物館)
一文字(鎌倉初期~中期)
一文字一派は、「福岡一文字」、「吉岡一文字」、「正中(岩戸)一文字」、「片山一文字」に分かれます。特筆したいのは福岡一文字。始祖である「則宗」は、後鳥羽上皇に任命された御番鍛冶として有名です。福岡一文字では、他にも十数名が番鍛冶に指名されるなど、多数の名匠を輩出しました。

国宝 則宗/則宗作
五代将軍徳川綱吉(徳松)が参詣の際に寄進したとされる太刀。糸巻太刀拵も豪華。
太刀 銘 則宗
太刀 銘 則宗
則宗
鑑定区分
国宝
刃長
78.5
所蔵・伝来
徳川徳松(綱吉)→
日枝神社
備前長船(鎌倉時代中期~安土桃山時代)
蛙子丁子乱」(かわずこちょうじみだれ)や「三作鋩子」(さんさくぼうし)など、刃文や鋩子(ぼうし)が独特で華やかな作柄が特徴です。時代に取り残されることなく流行を取り入れるのが上手く、相伝備前鍛冶を完成しました。

太刀 銘 光忠/光忠作
蛙子丁子刃(かわずこちょうじば)や袋丁子刃(ふくろちょうじば)を焼き華やか。

太刀 銘 光忠

太刀 銘 光忠

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
光忠 重要文化財 2尺1寸3分 東京国立博物館

備前伝の特徴

場所 備前国(現在の岡山県
隆盛期 平安~室町時代
姿 腰反りがある物から、大段平(おおだんびら)の物もある。
鍛肌 杢目肌・小板目肌のつんだ物が多く見られる。
焼入 匂本位(肉眼ではっきり認められない)
刃文 互の目。丁子乱、映りが多い。

相州伝「相州伝」日本刀の進化における立役者

相州伝

相州伝

相州伝は、相模国(現在の神奈川県)に鎌倉幕府が開かれたことで生まれた鍛錬法です。それまで日本刀は、山城国、大和国などに注文をしていましたが、幕府の兵力増強の一環として有力な刀匠を幕府のお膝元に常置する必要に迫られ、北条時頼によって名匠の招聘が行なわれました。山城国から「粟田口国綱」、備前国から「備前三郎国宗」、「福岡一文字助真」の3名によって鎌倉鍛冶の礎が築かれました。

そんなとき、1274年(文永11年)に「文永の役」、1281年(弘安4年)に「弘安の役」と言われる「元寇」(蒙古襲来)が起こります。この元寇で、重ねが厚く平肉が厚いと、重くて振り回すことができないこと、何度も太刀を合わせると折れてしまうことなど、刀の欠点が判明します。「新藤五国光」、「行光」、「正宗」(五郎入道正宗)は、これを克服する新しい鍛刀法を考案し、華実兼美な相州伝を完成させました。

相州伝は硬軟の地鉄を組み合わせて、地肌を板目鍛という鍛え方にすることで軽量ながらも強度アップを実現しました。見た目には、長寸で身幅が広く豪壮さを増しながらも、重ねが薄く鋒/切先が伸びたことで、西洋刀のように突き刺しに優れた物になりました。また、地景や金筋といった沸(にえ)による意識的な美しさを表現し、のたれ文を創始しました。「折れない、曲がらない、甲冑をも断ち切る」という、技術的にも美術的にも昇華した、無二の日本刀が作り上げられたのです。相州伝は鎌倉時代末期に大流行し、南北朝時代までには全国に広がり一世を風靡します。ただ相州伝は、強く鍛えた鋼を高温で熱し、急速に冷却するという、技術的に非常に難しい鍛錬法でした。

室町時代になると戦はなくなり、豪族の衰退とともに僅かに相州伝を継ぐ鎌倉鍛冶は鎌倉を追われて、相模国小田原に移住します。この頃になると、荒沸本位の板目鍛えという相州伝の鉄則を厳守することができなくなります。刃文も良く見ると、沸がなく、むしろ匂出来に代わり、飛焼も力のこもらない物となりました。綱広一門は、小田原鍛冶の基礎を固め、徳川時代を経て、明治時代まで鍛刀を続けました。

相州伝の日本刀
相州伝の日本刀をご覧いただけます。

相州伝の日本刀

相州伝は、相州伝前期(新藤五国光)、相州伝上期(行光、正宗、貞宗の時代)と相州伝三期(広光の時代)、相州伝中期(秋広の時代)、相州伝四期(広正、正広の時代)の5期に分けることができます。

正宗(まさむね)
城和泉守正宗(じょういずみのかみまさむね)/正宗作
「城和泉守」は、武田信玄の家臣であった城昌茂のこと。地刃が晴れやかで美しく、正宗らしい1振です。
津軽正宗(城和泉守正宗)
津軽正宗(城和泉守正宗)
正宗磨上本阿(花押) 城和泉守所持
鑑定区分
国宝
刃長
70.8
所蔵・伝来
城景茂 →
津軽家
相州伝前期(鎌倉時代後期/新藤五国光)
備前三郎国宗の子、新藤五国光が粟田口国綱の養子になり、備前伝と山城伝の両方を学びました。板目肌、沸本位の細直刃、刃縁が小沸でほつれ、金筋、稲妻が現れます。 彫刻(素剣、梵字、腰樋)が多く、力強く気品があります。

新藤五国光太刀/新藤五国光作
後西天皇より松平陸奥守の伊達綱宗が拝領したことに因む。「享保名物帳」にも収載。

新藤五国光太刀

新藤五国光太刀

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
国光 重要文化財 2尺4寸5分 静嘉堂文庫
美術館
相州伝上期(鎌倉時代後期/行光、正宗、貞宗の時代)
「行光」の刃文は焼きが強く金筋や沸足が太く湯走も現れます。正宗の刃文は焼幅が広く派手で荒沸本位。沸の粒子が大小不揃いです。「貞宗」の刃文は、のたれ乱。穏やかでそれほど華美ではなく静かで奥ゆかしい貞宗肌です。彫刻の名手で梵字、爪付、剣、蓮台を重ね彫した意匠が濃厚な作柄です。

亀甲貞宗(きっこうさだむね)/貞宗作
茎(なかご)に亀甲菊花文の彫物(ほりもの)があり、「亀甲貞宗」と呼ばれる。
亀甲貞宗
亀甲貞宗
-
鑑定区分
国宝
刃長
70.9
所蔵・伝来
松平直政 →
尾張徳川家 →
徳川綱吉 →
東京国立博物館
相州伝三期(鎌倉時代後期/広光の時代)
大のたれ乱、上部に行くにしたがって飛焼が皆焼風に帯状に現れ、刃中には荒い沸が付いて一面に金筋や砂流しとなり、賑やかさが特徴です。

大倶利伽羅広光(おおくりからひろみつ)/広光作
刀身に大きな倶利伽羅(剣に巻きついた竜)が彫られているのが名前の由来。
大倶利伽羅
大倶利伽羅
-
鑑定区分
重要美術品
刃長
67.6
所蔵・伝来
徳川秀忠 →
伊達忠宗 →
法人蔵
相州伝中期(南北朝時代/秋広の時代)
刃文は焼幅の広い大乱、大模様、沸が荒いのが特徴です。皆焼や棟焼は南北朝時代から焼き始められます。刃中で盛んに沸裂けが起こり、飛焼には必ず沸が付きます。

相州住秋広 永和二/秋広作
「秋広」の作品の多くが寸伸びの短刀。刃文は大乱、皆焼きなど大模様が見事。

相州住秋広 永和二

相州住秋広 永和二

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
相州住秋広
/永和二
重要文化財 9寸8分 京都国立博物館
相州伝四期(室町時代/広正、正広の時代)
難しい相州伝がもはや伝承できず、荒沸本位の板目肌という鉄則が崩れています。刃文は表面上では大乱や皆焼など華やかさがあっても、沸は少なく、焼入れの弱い匂出来で、感じの悪いむら沸です。

相州住広正/広正作
刃文は緩やかにのたれて小乱れ交じり、小足は無数に働いて二重刃など見どころが多い。

相州住広正

相州住広正

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
相州住広正 特別重要刀剣 2尺0寸1分 個人蔵

相州伝の特徴

場所 相模国(現在の神奈川県)
隆盛期 鎌倉~南北朝時代。
姿 長寸で反りが浅く、重ね薄く、中鋒/中切先
鍛肌 板目肌
焼入 荒沸(沸の粒が大きく華やか)
刃文 焼幅が最も広い流派。五箇伝の中で一番難しい鍛錬法。

美濃伝「美濃伝」戦国・江戸時代の雄

美濃伝

美濃伝

美濃伝は、美濃国(現在の岐阜県)に伝えられた鍛錬法で、五箇伝の中で最も新しい流派です。大和伝・手掻派出身で、で相州伝を学んだ「正宗十哲」のひとり「志津三郎兼氏」と、同じく正宗十哲の「金重」が美濃に移住して、美濃伝が完成します。美濃伝は大和伝と相州伝の合作で、南北朝時代と戦国時代に急激に成長を遂げました。

美濃伝が発展した理由は、第一に立地。美濃国に「明智光秀」、尾張国に「織田信長」、三河に「徳川家康」など、時の名武将と家臣が居を構え、そのほとんどがお得意様となっていました。第二に、利便性。関東と京都の間で数多く起こった戦のちょうど通り道に位置し、山城伝のように直接戦場になることもありませんでした。第三に、実用向きでよく斬れたためです。また戦国時代には、東の軍需工場として大量生産もこなしました。現在の岐阜県関市を中心として鍛刀していたので、「関物」(せきもの)とも呼ばれました。

美濃伝は数打物である大量生産品はもちろん、高品質な「注文打ち」でも名を馳せます。最上大業物である「兼定(二代之定)/志津系」や三本杉(木が3本並んだような刃文)が見事な「兼元(孫六兼元)/大和伝系」、「兼房乱れ」(けんぼうみだれ)と呼ばれる、焼き幅の広い互の目丁子の刃文を生み出した「兼房/大和伝系」など、多くの名匠を輩出しました。さらに1590年(天正18年)に吉井川の氾濫で備前伝が壊滅すると、全国からの受注が集中します。美濃伝は全国一の刀工数を誇り、刀剣需要に応え、江戸幕末まで繁栄し続けました。

美濃伝の日本刀
美濃伝の日本刀をご覧いただけます。

美濃伝の日本刀

美濃伝は「志津系」、「金重系」、「大和伝系」の三つに大別できます。

志津三郎兼氏
分部志津(わけべしづ)/志津三郎兼氏作
分部左京亮光嘉(伊勢上野藩初代藩主)が所持していたため命名。のちに徳川家康に献上された。
分部志津
分部志津
-
鑑定区分
重要文化財
刃長
70.6
所蔵・伝来
分部氏 →
徳川家康 →
紀州徳川家
志津系(志津三郎兼氏、直江志津、兼友、兼延、兼俊、兼信)
志津系の太刀姿は、鎌倉時代末期の雄壮な相州伝風。地肌も相州伝風の板目鍛えを主とした杢目肌ですが、必ず大和伝風の柾目が交じります。また刃文は相州伝の沸本位の乱刃に互の目乱が交じるのが特徴です。

無銘 直江志津(喜連川志津)/直江志津作
野州喜連川家に伝来。板目流れて柾がかり、刃文は大きく湾れて互の目・尖り刃が複雑に乱れ、名物「分部志津」を彷彿させるでき映え。

無銘 直江志津(喜連川志津)

無銘 直江志津(喜連川志津)

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
無銘 重要刀剣 2尺3寸6分5厘 倉敷刀剣美術館
金重系(金重、金光、金行)
金重系の太刀姿は、優しく穏やか。中直刃に小互の目乱、地肌はやはり大和伝風の柾目が交じるのが特徴です。

無銘 金重/金重作
江戸時代、宮本武蔵が吉岡一門との戦いの際に使用したと言われる日本刀。

無銘 金重

無銘 金重

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
無銘 重要刀剣 2尺3寸1分3厘 島田美術館
大和伝系(善定系、寿命系、赤坂千手院系)
大和伝系は、「善定系」、「寿命系」、「赤坂千手院系」の3つに大別できます。善定系は、大和伝系手掻一派が移住してきた物。包吉の子、清次郎が初代惣領。法華経信者で法名の善定に因んで名付けられました。寿命系は、同じく大和伝系手掻一派の刀匠寿命が初代惣領。赤坂千手院系は、大和伝系千手院一派が移住してきた物で、初代惣領は、藤原国長。美濃国の赤坂に居を構えていたことに因んで呼ばれました。

真柄切兼元(青木兼元)/二代兼元(孫六兼元)作
姉川の合戦にて、徳川家臣の青木一重が、北陸一の剛力と言われた真柄十郎左衛門直隆・十郎隆基父子を討ち取った日本刀。兼元は善定系に所属。

真柄切兼元(青木兼元)

真柄切兼元(青木兼元)

鑑定区分 寸法 所蔵・伝来
兼元 重要美術品 2尺3寸3分 個人蔵

美濃伝の特徴

場所 美濃国(現在の岐阜県)
隆盛期 南北朝~室町時代
姿 豪壮な物から、戦国期の片手打ちに見られる先反りの体配の物が見られる。
鍛肌 板目肌で鎬地に柾目肌が現れる。
焼入 匂本位(肉眼ではっきり認められない)。
刃文 焼刃が浮き立ち尖り刃、互の目や兼房乱(けんぼうみだれ)が見られる。
五箇伝の名工五箇伝の名工
日本刀(刀剣)の歴史に名を残した、数々の名工をご紹介します。

五箇伝(五ヵ伝、五ヶ伝)
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