五箇伝とは、「大和伝」(奈良県)、「山城伝」(京都府)、「備前伝」(岡山県)、「相州伝」(神奈川県)、「美濃伝」(岐阜県)のこと。この5つの地域に伝わる日本刀作りの伝法は、独特であると同時に、優れた技術を互いに共有し、発展したのです。以下、五箇伝と呼ばれる、伝法の歴史と特徴をご紹介します。(※なお「五箇伝」は、「五ヵ伝」「五ヶ伝」と表記する場合もあります。)
大和伝
「大和伝」は、大和国(現在の奈良県)に伝えられた鍛錬法です。
飛鳥時代の701年(大宝元年)、文武天皇のもとで日本初の本格的な法律「大宝律令」が完成し、この大宝律令により、刀の茎(なかご)に作者名を入れることが義務付けられるのです。祖は「天国」(あまくに)で、天国と初めて銘(めい)を切ったため、直刀ではなく、反りのある鎬造の日本刀を作った最初の人物、と崇められるようになりました。
さらに奈良時代の710年(和銅3年)、元明天皇が平城京(大和国)に都を移すと、国家の保護を受けて仏教が発展します。「大和五派」と言われる「千手院」(せんじゅいん)、「尻懸」(しっかけ)、「当麻」(たいま/たえま)、「手掻」(てがい)、「保昌」(ほうしょう)の5つの寺院の門下にて、大和伝が繁栄していきました。
同じ時期に隆盛した「山城伝」のように垢抜けした高尚優美な太刀ではなく、寺院のお抱え鍛冶として上品味はあるものの、僧兵が使用するための素朴な実戦用に徹し、代々伝承して栄えた刀工集団なのです。
寺院と密接な関係を持っていた大和伝は、寺院の衰退と共に消滅し、また寺院の勢力の復活と共に再生します。鎌倉時代以降は旧制度の寺院との関係を維持することができなくなり、時代に乗ることができませんでした。室町時代中期には地方の豪族を頼って、美濃、北陸などに分散し、消滅しました。
無銘 千手院
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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無銘 | 特別重要刀剣 | 2尺3寸9分 | 刀剣ワールド財団 〔 東建コーポレーション 〕 |
無銘 尻懸
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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無銘 | 重要刀剣 | 2尺2分 | 倉敷刀剣美術館 |
無銘 当麻
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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無銘 | 特別重要刀剣 | 2尺2寸8分 | 刀剣ワールド財団 〔 東建コーポレーション 〕 |
無銘 手掻
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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無銘 | 重要刀剣 | 2尺2寸7分 | 倉敷刀剣美術館 |
無銘 保昌
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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無銘 | 特別保存刀剣 | 2尺1寸3分 | 倉敷刀剣美術館 |
場所 | 大和国(現在の奈良県) |
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隆盛期 | 平安~鎌倉時代で「五箇伝」の中で最も古い。 |
姿 | 長寸で反りが深く身幅が狭く小鋒/小切先。鎬幅が広くしっかりしていて実用的。 |
鍛肌 | 柾目肌(木を縦に切ったときの模様に似た物)が多い。 |
焼入 | 沸本位(中くらいの粒で構成されている) |
刃文 | 直刃または直刃ほつれ。刃縁に二重刃、喰い違いが見られる。 |
山城伝
平安時代の794年(延暦13年)になると、桓武天皇は平安京(現在の京都府山城)に都を移します。この遷都とともに大和伝は衰退します。
代わりに繁栄したのが「山城伝」です。祖は「三条小鍛冶宗近」。「三条」、「五条」、「綾小路」、「粟田口」(あわたぐち)、「来」(らい)、「了戒」(りょうかい)、「信国」(のぶくに)一派で、山城伝というひとつの伝統を築きます。
山城伝の特徴は、とにかく優美で気品に満ちているということ。これは、山城伝が天皇や朝廷に仕える貴族のオーダーにより作刀されていたためです。姿・形の美しさに重点が置かれ、実戦の技術(切れ味、折れにくさ等)は、全く問われませんでした。しかし平安時代末期になると、地方豪族の進出や皇位継承問題にからまる内紛が起こり、山城伝は実戦に耐えられる技術が必要となります。そこで、大和伝や「備前伝」(びぜんでん)、備中など技術に優れた地方鍛冶を招致します。美しいだけではなく実戦の技術を加味した山城伝の礎を作るのです。
鎌倉時代初期には、後鳥羽上皇の御番鍛冶制度が設けられ、山城伝も粟田口一派から多くの刀工が選ばれました。また来派は鎌倉武士が好む豪壮な太刀を作り、受注制作が成功。粟田口一門を凌ぐほど人気が出ます。そして、鎌倉時代後期には「国重」が「正宗十哲」のひとりとなり、相州伝を取り入れますがあまり振るわず、室町時代になるころには衰退しました。
太刀 銘 宗□ 伝宗近
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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宗□(伝宗近) | 重要文化財 | 2尺6寸1分 | 東京国立博物館 |
小沸本位の焼幅の狭い直刃か直刃仕立てに小乱れが交じます。地肌の奥底から湧き出たような沸で梨子肌。樋や彫刻が多く、地鉄を「梨子地肌」に鍛え、優美な太刀姿を残したままで鎬幅が広く、長さや重ねなどすべての点でバランスが良い強い太刀を生み出します。
「来映り」という映りや荒めの沸が付きます。来肌(青黒味)で、沸本位のたれ乱に丁子乱が交じります。乱の頭に沸が懲り、蕨の頭を見るよう(蕨手乱)で、刃中に力強い沸足が入ります。彫刻が上手く強みのある豪壮な姿になっています。
実際に切れ味を試してランク付けをしたという江戸時代の書物「懐宝剣尺」では、「来国俊」が「大業物」の評価を受けるまでになりました。
太刀 銘 国俊
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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国俊 | 重要文化財 | 2尺4寸8分 | 東京国立博物館 |
無銘 伝了戒
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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無銘 | 重要刀剣 | 2尺3寸1分 | 倉敷美術館 |
一期一腰
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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奉富士本宮 源式部丞信国 |
重要文化財 | 1尺4寸5分 | 富士山本宮 浅間大社 |
場所 | 山城国(現在の京都府) |
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隆盛期 | 平安~鎌倉時代 |
姿 | 腰反り・輪反りが見られる。優雅で気品に満ちている。 |
鍛肌 | 小杢目肌。粟田口派は梨子地肌。 |
焼入 | 小沸(小さい粒が現れている)。 |
刃文 | 直刃調で、中には小乱が交じる物もある。 |
備前伝
備前伝のルーツは、平安時代中期の987年(永延元年)から始まる「古備前」鍛冶です。「友成」を祖とし、この技法を受け継いで、鎌倉時代中期の1208年(承元2年)、後鳥羽上皇のもとで御番鍛冶になった「則宗」を始祖とする「一文字」一派が生まれ、1238年(暦仁元年)には「光忠」を祖とする「備前長船」一派が生まれます。
備前伝は、このように時代の波に乗るかのように名匠が生まれ、見事にバトンタッチされてきました。さらに鎌倉時代末期になると、備前長船では「兼光」と「長義」が、流行していた「相模国」の「五郎入道正宗」に相州伝を学び、「正宗十哲」(まさむねじってつ)にも選ばれます。さらに、「元重」は「正宗」の子「貞宗」に学び、「貞宗三哲」(さだむねさんてつ)と呼ばれるようになり、「相州備前鍛冶」が完成します。
室町時代には、将軍足利義満によって行なわれた「日明貿易」の主要輸出品に選ばれることに。戦国時代になると、「数打ち物」と呼ばれる、刀の大量生産をこなし、益々繁栄していきました。
このように備前伝は古備前、一文字、備前長船と、優秀な刀匠によって上手く伝法が引き継がれ、改革され、長い期間に亘って繁栄を続けました。しかし天正18年(1590年)8月吉井川の大洪水と熊山の山津波が起き、長船、畠田、福岡の地は一瞬にて水没。備前伝は消滅します。
福島兼光
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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備州長船住兼光 /観応□年 八月日 |
重要文化財 | 2尺5寸3分半 | 東京国立博物館 |
なかでも包平の太刀は、時の将軍源頼朝が愛用していたことでも有名です。
太刀 銘 光忠
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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光忠 | 重要文化財 | 2尺1寸3分 | 東京国立博物館 |
相州伝
相州伝は、相模国(現在の神奈川県)に鎌倉幕府が開かれたことで生まれた鍛錬法です。それまで日本刀は、山城国、大和国などに注文をしていましたが、幕府の兵力増強の一環として有力な刀匠を幕府のお膝元に常置する必要に迫られ、北条時頼によって名匠の招聘が行なわれました。山城国から「粟田口国綱」、備前国から「備前三郎国宗」、「福岡一文字助真」の3名によって鎌倉鍛冶の礎が築かれました。
そんなとき、1274年(文永11年)に「文永の役」、1281年(弘安4年)に「弘安の役」と言われる「元寇」(蒙古襲来)が起こります。この元寇で、重ねが厚く平肉が厚いと、重くて振り回すことができないこと、何度も太刀を合わせると折れてしまうことなど、刀の欠点が判明します。「新藤五国光」、「行光」、「正宗」(五郎入道正宗)は、これを克服する新しい鍛刀法を考案し、華実兼美な相州伝を完成させました。
相州伝は硬軟の地鉄を組み合わせて、地肌を板目鍛という鍛え方にすることで軽量ながらも強度アップを実現しました。見た目には、長寸で身幅が広く豪壮さを増しながらも、重ねが薄く鋒/切先が伸びたことで、西洋刀のように突き刺しに優れた物になりました。また、地景や金筋といった沸(にえ)による意識的な美しさを表現し、のたれ文を創始しました。「折れない、曲がらない、甲冑をも断ち切る」という、技術的にも美術的にも昇華した、無二の日本刀が作り上げられたのです。相州伝は鎌倉時代末期に大流行し、南北朝時代までには全国に広がり一世を風靡します。ただ相州伝は、強く鍛えた鋼を高温で熱し、急速に冷却するという、技術的に非常に難しい鍛錬法でした。
室町時代になると戦はなくなり、豪族の衰退とともに僅かに相州伝を継ぐ鎌倉鍛冶は鎌倉を追われて、相模国小田原に移住します。この頃になると、荒沸本位の板目鍛えという相州伝の鉄則を厳守することができなくなります。刃文も良く見ると、沸がなく、むしろ匂出来に代わり、飛焼も力のこもらない物となりました。綱広一門は、小田原鍛冶の基礎を固め、徳川時代を経て、明治時代まで鍛刀を続けました。
相州伝は、相州伝前期(新藤五国光)、相州伝上期(行光、正宗、貞宗の時代)と相州伝三期(広光の時代)、相州伝中期(秋広の時代)、相州伝四期(広正、正広の時代)の5期に分けることができます。
新藤五国光太刀
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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国光 | 重要文化財 | 2尺4寸5分 | 静嘉堂文庫 美術館 |
相州住秋広 永和二
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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相州住秋広 /永和二 |
重要文化財 | 9寸8分 | 京都国立博物館 |
相州住広正
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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相州住広正 | 特別重要刀剣 | 2尺0寸1分 | 個人蔵 |
美濃伝
美濃伝は、美濃国(現在の岐阜県)に伝えられた鍛錬法で、五箇伝の中で最も新しい流派です。大和伝・手掻派出身で、で相州伝を学んだ「正宗十哲」のひとり「志津三郎兼氏」と、同じく正宗十哲の「金重」が美濃に移住して、美濃伝が完成します。美濃伝は大和伝と相州伝の合作で、南北朝時代と戦国時代に急激に成長を遂げました。
美濃伝が発展した理由は、第一に立地。美濃国に「明智光秀」、尾張国に「織田信長」、三河に「徳川家康」など、時の名武将と家臣が居を構え、そのほとんどがお得意様となっていました。第二に、利便性。関東と京都の間で数多く起こった戦のちょうど通り道に位置し、山城伝のように直接戦場になることもありませんでした。第三に、実用向きでよく斬れたためです。また戦国時代には、東の軍需工場として大量生産もこなしました。現在の岐阜県関市を中心として鍛刀していたので、「関物」(せきもの)とも呼ばれました。
美濃伝は数打物である大量生産品はもちろん、高品質な「注文打ち」でも名を馳せます。最上大業物である「兼定(二代之定)/志津系」や三本杉(木が3本並んだような刃文)が見事な「兼元(孫六兼元)/大和伝系」、「兼房乱れ」(けんぼうみだれ)と呼ばれる、焼き幅の広い互の目丁子の刃文を生み出した「兼房/大和伝系」など、多くの名匠を輩出しました。さらに1590年(天正18年)に吉井川の氾濫で備前伝が壊滅すると、全国からの受注が集中します。美濃伝は全国一の刀工数を誇り、刀剣需要に応え、江戸幕末まで繁栄し続けました。
美濃伝は「志津系」、「金重系」、「大和伝系」の三つに大別できます。
無銘 直江志津(喜連川志津)
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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無銘 | 重要刀剣 | 2尺3寸6分5厘 | 倉敷刀剣美術館 |
無銘 金重
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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無銘 | 重要刀剣 | 2尺3寸1分3厘 | 島田美術館 |
真柄切兼元(青木兼元)
銘 | 鑑定区分 | 寸法 | 所蔵・伝来 |
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兼元 | 重要美術品 | 2尺3寸3分 | 個人蔵 |