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織田有楽はなぜ大坂城を去ったのか?【後編】

歴史研究最前線!#034

徳川側と和睦か、抗戦か? 大坂方の派閥抗争に嫌気が差した⁉

 

大阪市大坂城公園内にある大阪城。秀吉が築城した「大坂城」は現存しておらず、写真の天守閣は昭和5年(1930年)に再建されたもの。

 前回の続きである。有楽(うらく)が豊臣方にあった理由は、2つの意味が考えられる。

 

 ひとつは、端的にいうならば徳川方のスパイということになろう。従来の見解は、これに近い意味合いで考えられてきた。

 

 かつて有楽は、家康から大和国に3万石を与えられ、片桐且元(かたぎりかつもと)と同じく徳川方に近い人物でもあり、強く疑われたのである。

 

 且元は方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件に際して、豊臣方のために努力したが、それは実らなかった。有楽もまた和睦(わぼく)に取り組み、豊臣方に尽くしてきた。

 

 つまり、有楽は徳川方と豊臣方の友好関係を築くために、豊臣方にあったと考えるべきであろう。且元も有楽も付家老(つけがろう)のような存在であった。

 

 大坂の陣に際して、多くの牢人衆が大坂城に集まったが、和睦の際には牢人衆の存在が最大のネックになった。徳川方は牢人衆の退去を望んだが、牢人衆の多くは戦争の続行を望んだ。徳川方に勝って、恩賞を欲したのである。

 

 有楽はそうした家中のさまざまな意見の相違に苦しめられていたのである。その点をもう少し考えてみよう。

 

 『駿府記』によると、慶長20年(1615)4月13日、有楽とその子・尚長(なおなが)は、名古屋の家康の前で豊臣方の情勢について、「大坂方の情勢は、諸浪人とあわせて3つに分かれております。つまり、①大野治長、後藤基次(もとつぐ)、②木村重成(しげなり)、渡邊糺(ただす)、真田信繁(のぶしげ)、明石掃部(あかしかもん)、③大野治房(はるふさ)、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)、毛利勝永(かつなが)、仙石秀範(せんごくひでのり)の3つということである」と述べている。

 

 この3つのグループを大雑把に分けるならば、①が和睦推進派、②が中間派、③が徹底抗戦派というところになろう。しかしながら、徳川方との和睦を進めようとする有楽にとっては、自身の意見が全く通らないとなると、その存在価値が見出されなくなったようだ。

 

 つまり、有楽が退去した理由は、大坂方の派閥抗争に巻き込まれ、徳川方と豊臣方の友好関係を築くという、当初の目的が叶わなかった。

 

 そのため、思いもよらず大坂城を退かなければなかったのである。有楽といえば、常に悪いイメージがつきまとうが、少しは見直す必要があるようだ。

 

(完)

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過去記事

渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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