日本の城郭史を変えた天下人の「石の城」小牧山城【ニッポンの歴史舞台を旅する[愛知県小牧市編]】
信長・秀吉・家康という戦国の三英傑が関わる歴史のある小牧山城
■織田信長は「魅せる城」として徳川家康は「守る城」として

小牧山城山全体が史跡となっており、山の麓から頂上にいたるまで随所に遺構をみることができる。
戦国三英傑と呼ばれ、天下を治めた織田信長が居城とし、徳川家康が陣城とした名城が愛知県小牧市にある「小牧山城」である。

織田信長と徳川家康ふたりの天下人がかかわった城は全国でも稀であり、歴史的にも重要な城跡である。(織田信長/東京都立中央図書館蔵、徳川家康/国立国会図書館蔵)
築城したのは織田信長。信長は中世以来の「土の城」ではなく、石垣を用いた革新的な「石の城」として築いた小牧山城を美濃攻めの拠点、そして居城とした。標高約86mの小牧山に、石を積み上げた城は、人々に強烈な印象を与え、敵は恐れをなして逃げていったという記録も残される。この小牧山城は「日本の城郭史を変えた石の城」と評され、歴史的にも大きな意味をもつ。

石垣
現在、信長時代の石垣復元が進んでいる。

復元石垣の完成後の姿を楽しみにしたい。
もう一つの特徴は大手道である。山の中腹までまっすぐに伸びる直線的な大手道は小牧山城以外では、幻の巨城・安土城にしか存在しない。これらの石垣や大手道を有する信長の小牧山城は家臣をはじめ、敵や領民に対し自分の力を知らしめる、いわば「魅せる城」であった。

大手道安土城を彷彿させる大手道は、信長の強い意志を感じずにはいられない。
信長が小牧山城を去り、しばらくは廃城となったが、信長が本能寺の変で斃れた17年後、徳川家康と羽柴(豊臣)秀吉が激突した小牧・長久手の戦いが勃発。家康は小牧山城に目をつけ本陣とした。家康は信長の「魅せる城」を対秀吉軍用に鉄壁の防御機能をもつ「守る城」に大改修。
それを命じたのは、徳川四天皇のひとり、榊原康政(さかきばらやすまさ)であった。まっすぐな大手道を曲げ、土塁、堀、虎口をわずか5日間で整備したといわれている。鉄壁な要塞と化した小牧山城に秀吉軍は容易に手を出せず、小牧山城が戦場になることはなかった。
江戸時代の歴史家・頼山陽(らいさんよう)は、家康の天下統一の過程を表し、「家康の天下を取るは大坂にあらずして関ヶ原にあり、関ヶ原にあらずして小牧にあり」(『日本外史』)と記すほど重要な戦いとなった。そして秀吉軍から徳川家康を守った小牧山城は「神君家康公御勝利御開運之御陣跡」として長い間大切に保護された。

小牧山城史跡情報館(れきしるこまき)近年の発掘調査で明らかとなった信長時代の城の情報などを紹介。
そのため信長、家康時代の遺構が良好な状態で現存する稀な城趾として昭和2年に国の史跡に指定され、「続日本百名城」にも選ばれている。
信長と家康、ふたりの天下人の痕跡が残る小牧山城を尋ねてみては。