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大坂の陣でなぜ全国の大名たちは誰一人として豊臣方に味方しなかったのか⁉

今月の歴史人 Part.5


大坂の陣に際して、徳川方にすべての大名が従った一方で、豊臣方に与する大名は皆無だった。その理由を考えてみよう。


 

■積極的に行われた徳川家康の大名統制

 

大坂冬の陣図屏風(模本/東京国立博物館蔵/出典:Colbase)

 

 慶長8年(1603)、徳川家康が征夷大将軍に就任すると、その2年後には子の秀忠に将軍の座を譲った。これにより、徳川家が将軍職を世襲することが天下に知らしめられ、武家の棟梁(とうりょう)の地位を確固たるものにしたのである。

 

 以後、家康は諸大名の統制を積極的に行った。これまで、武家官位は豊臣家を通して諸大名に与えられたが、家康がその推挙権を獲得した。諸大名が支配する領国の状況を知るため、御前帳・国絵図の提出を求めた。江戸城などの天下普請に諸大名の動員を求めたのも、大名統制の一環であろう。

 

 こうした状況下の慶長19年(1614)、大坂冬の陣が開戦したのである。開戦前から徳川方が優勢に思えたが、豊臣方は牢人たちを動員して対抗した。全国の大名は徳川方に味方したが、豊臣方も決して諦めていなかったのだ。

 

 徳川家と豊臣家が決裂した際、蜂須賀家当主の至鎮(よししげ)は江戸にいたが、父の蓬庵(家政)は阿波に在国していた。蜂須賀家は、豊臣家に引き立てられた恩顧の大名だった。

 

 関ヶ原合戦後、家政は出家して蓬庵と名乗り、家督を至鎮に譲っていた。関ヶ原合戦を知る百戦錬磨の武将である。蓬庵は隠居の身とはいえ、豊臣家にとって頼りになる存在だったといえよう。そこで、秀頼は木俣半之丞(きまたはんのじょう)に秀頼の内書と大野治長(はるなが)の副状を持たせ、使者として遣わした。ところが、要請を受けた蓬庵は、決して豊臣家に与することはなかったのである(『森氏古伝記』)。

 

 一説によると、蓬庵は豊臣家の味方になろうとしたが、至鎮が諌止したと伝わっている(『山本日記』)。至鎮は、最初から徳川家に味方することを決めていたであろうから、蓬庵が豊臣家に与することを何としても止めさせねばならなかった。

 

■地に落ちていた豊臣家の威光

 

 秀頼は薩摩島津氏を頼ることとし、豊臣家に味方するよう要請した(『薩藩旧記雑録後編』)。豊臣家が島津氏を頼ったのは、いまだ徳川家に関ヶ原合戦での遺恨があると考えたからだろう。書状を送ったのは、大野治長である。

 

 当時、島津家の当主だった家久(いえひさ)は、大野治長に返書を送った。その内容は、「豊臣家への奉公はすでに終えており、家康に歯向かうことは思いも寄らない」という回答で、要請を断るものだった。

 

 家久は返書に添えて、かつて豊臣方から贈られた刀も返却した。関ヶ原合戦で島津家は西軍に味方し敗北した。島津家は改易を免れたものの、大いに苦労した。そういう苦い経験があったので、二度と同じ轍を踏みたくなかったのである。

 

 大坂冬の陣の開戦後ではあるが、慶長19年(1614)11月、大野治長は淡路の池田忠長(ただなが/忠雄)に書状を送っていた(『駿府記』)。忠長は輝政の子で、淡路・洲本に6万石を与えられていた。大坂冬の陣のときは、まだ13歳の子供だった。

 

 治長は忠長に味方になるように迫り、淡路の百姓も豊臣方に通じていると説得した。しかし、この作戦は失敗し、遣わした6人の使者も捕らえられた。「廣田文書」には、関連すると思しき史料があるので、事実とみなしてよいだろう。

 

 豊臣方が味方を募るべく、諸大名に使者を送り込んだのは疑いないと考えられるが、その後のことを考えて書状は処分されたケースが多かったに違いない。

 

 右の例は、ほんのごく一部であるが、呼び掛けられた諸大名にすれば、もはや豊臣家は死に体と認識しており、味方になる気はなかったのだろう。徳川家が武家の棟梁として君臨し、諸大名を統制していたので、もはや逆らう術はなかった。豊臣家の威光は、地に落ちていたのだ。

 

監修・文/渡邊大門

歴史人2024年1月号『大坂の陣 12の「謎」』より

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