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大坂の陣で徳川家康は「大坂城」の築城担当者に攻略の分析をさせていた⁉

今月の歴史人 Part.6


「難攻不落」と呼ばれた大坂城。大坂の陣の戦いにおいて、徳川家康はこの城をどのように攻略したのだろうか?


 

■大坂城の築城担当者に命じて詳細な絵図を作成

 

徳川家康像と大阪城

 

 慶長19年(1614)10月、徳川方と豊臣方は決裂し、ついに戦闘状態に入った。家康は豊臣方との作戦に際して、十分な準備を行っていたことが知られる。

 

 さかのぼること同年5月、イギリス商人は平戸(ひらど)で鉛(なまり)を売却しようとしたが失敗し、ウイリアム・アダムスの仲介によって、幕府がすべてを買い取ることになった(『慶元イギリス書翰』)。価格は、100斤(せき)につき10匁(もんめ)だったという。オランダ商人も平戸で鉛を売ろうとしていたので、同じ価格で幕府が買い上げたという。

 

 同年6月、徳川家康はイギリス商人から大量の大砲、火薬、弾丸を購入した(『慶元イギリス書翰』)。仲介したのはアダムスで、砲は1貫(かん)、火薬は1斤2匁3 分、弾丸は1斤6分という価格だった。特に使用目的は書かれていないが、合戦を意識していたのは確実といえるだろう。

 

 合戦相手といえば、豊臣家以外には考えられず、この段階から対策を考えていたと考えられる。こうした銃器類、大砲は、一連の大坂の陣で大きな威力を発揮することになったのである。

 

 10月11日、家康は約500の兵を率いて、本拠の駿府を出発した。12日後の23日、家康は京都に到着した。その間の家康は、豊臣方の情報収集に余念がなく、心休まる時間すらなかったという。

 

 10月23日、徳川秀忠は江戸を出発した。秀忠の出発が遅れたのは、江戸城の留守居の担当者の選任、そして関東仕置の措置に時間を要したからだった。結局、江戸の留守居を担当したのは家康の六男・忠輝(ただてる)で、以下、村上義明(むらかみよしあきら)、溝口宣勝(みぞぐちのぶかつ)、最上家親(もがみいえちか)らも残された。

 

 秀忠が上洛を果たしたのは、翌11月10日のことである。15日に家康・秀忠父子の率いる軍勢が京都を出発すると、18日には茶臼山に到着し、早速、諸将を交えて軍議が催されたのである。京都に滞在中だった家康は、秀忠を待つ間、大坂城付近の絵図などを収拾し、入念に作戦の準備に取り掛かっていた。

 

 加えて大工頭の中井正清(なかいまさきよ)に対して、大坂付近の詳細な絵図の作成を命じたのである。正清は大坂城の築城を担当した当事者であり、そのすべてを知り尽くしていた。慎重な家康は、周到な作戦を練り上げるべく、合戦の基礎資料を必要としていた。

 

 家康に絵図などの情報を提供したのは、大坂城を退去した片桐且元だった(『駿府記』)。且元は大坂城に在城していたこともあり、周辺の地理を知り尽くしていた。また、大坂城内の様子についても、詳しく伝えたに違いない。

 

 こうして家康は、且元と藤堂高虎(とうどうたかとら)を召し寄せると、大坂城の堀の深さなどを検討するなどし、どこから攻めたらいいのかを絵図をもとにして、詳細に作戦を練り上げたのである。

 

 徳川方にとって、もう一つ重要なのは大阪湾の制海権の確保だった。当時の大坂城はもっと大阪湾に近く、海上のルートで武器や兵糧を確保していた。そこで徳川方は、九鬼氏、向井氏、小浜氏といった水軍を起用し、大阪湾の海上封鎖を命じた。

 

 もちろん九鬼氏らの水軍は、豊臣方への武器や兵糧の搬入を阻止するだけが目的ではなかった。海上では豊臣方の水軍を撃破するなどし、戦いを有利に進めたのである。

 

 家康が入京して諸大名と協議すると、すぐに作戦行動が開始された。10月25日、家康は片桐且元と藤堂高虎に先鋒を命じると、高虎はただちに河内国府(大阪府柏原市)に出陣した(『慶長見聞録』)。高虎に従ったのは、神保相茂(しんぼうすけしげ)、桑山元晴(くわやまもとはる)らの諸将だった。

 

 一方の且元は、弟の貞隆(さだたか)、堀直寄(ほりなおより)らと約1万の兵で河内国府に向かった。2人の出陣後、上洛した諸将も次々と大坂城に向かった。家康が且元に厳命したのは、「命令するまで手出しをしてはいけない」ということだった。家康は作戦を練り上げたものの、あくまで本格的な開戦には慎重だった。

 

監修・文/渡邊大門

歴史人2024年1月号『大坂の陣 12の「謎」』より

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