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三河への逃避ルートをどうする!? 本能寺の変発生後の徳川家康と穴山梅雪の命運を分けた選択とは?

徳川家康の「真実」


本能寺の変の発生直後、徳川家康とその家臣たちは明智光秀の追手から逃れて三河へ帰還するための策を練った。武田家の遺臣・穴山梅雪もそこに居合わせた1人である。無事に三河へたどり着いた家康と、その道中で命を落とした穴山梅雪の命運をわけたのは、一体どの選択だったのだろうか?


 

■主要幹線を掌握された状況でどうにか三河へ帰ろうと模索する

家康は飯森山を出た後、津田村ではなく星田(大阪府交野市)に向かったという説もある。その際家康は、この藪で案内人が来るまで潜んでいたという話も。

 京の周辺は明智光秀が支配下においている可能性が高く、近江の西部も光秀の本領であるから避けなければならなかった。しかし、近江の東部は信長の居城である安土城もあり、逃避するルートの選択肢にはあげられたはずである。

 

 『武徳編年集成』によれば、家康と行動をともにしていた穴山梅雪は、南山城から木幡越えで近江にでて、そこから美濃の岩村から信濃に入り、甲斐へ戻ろうとしていたという。家康も、近江まで行動をともにして、東海道から三河に帰国することも考えたに違いない。

 

 しかし、家康はこのルートを選ばなかった。結果からすれば、それは正解だったのだろう。家康と別行動した穴山梅雪は、一揆によって殺されてしまっているからである。梅雪の場合は家康と事情が異なり、万が一明智光秀の手の者に捕まっても、武田氏の遺臣であるということで助命されるとみていたのかもしれない。

 

 京の周辺が危険だとすると、一番離れている南河内から竹内峠から大和に向かう方が、明智光秀の軍勢に見つからないという意味では安全だった。しかし、来た道を引き返さなければならず、距離が長くなればそれだけ日数もかかってしまう。また、大和を支配する筒井順慶(つついじゅんけい)は光秀の与力であったから、筒井氏の動向が不明である以上、大和を安全に通過できる保証もなかった。『当代記』には「大和路へかゝり」とあり、こちらのルートをとったような記述がみられるが、事実とは考えにくい。

 

 家康一行と別行動をとっていた穴山梅雪は、家康が渡った後に遅れて草内の渡しに到着。だが一揆の農民に遭遇して殺害されてしまった。明智光秀の命を受けた土民に討たれたという説もある。

家康一行と別行動をとっていた穴山梅雪は、家康が渡った後、遅れて草内に到着。だが一揆の農民に遭遇して殺害されてしまった。明智光秀の命を受けた土民に討たれたという説もある。

家康とは別のルートで逃亡?
穴山梅雪3つの謎

 

①なぜ別行動をとった?
定かではないが武田氏の遺臣である梅雪は家康と行動することで自身が狙われることを危惧し
た可能性がある。ほかにも家康の囮として別行動をした、家康が暗殺したなどという説もある。

 

②なぜお金を持っていた?
現在の山梨県身延町周辺を領有し、金山を保有していたためとされる。一方『武徳編年集成』には刀欲しさに案内者を斬ったために殺されたとあり、先々で強盗をしていた可能性も。

 

③死後の血縁の処遇は?
家康は梅雪の嫡男で信玄の外孫・勝千代に家督の相続を許し、武田性を名乗ることも許可。勝千代が病死すると今度は家康の側室になっていた梅雪の娘・下山殿との子に継がせた。①の家康による暗殺説は考えづらい。

 

 

監修・文/小和田泰経

(『歴史人』2022年8月号「徳川家康天下人への決断」より)

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