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「二枚看板」に偽りあり? 曹操と関羽の「かませ犬」にされた顔良と文醜。真の実力は・・・

ここからはじめる! 三国志入門 第112回

 


三国志の時代「赤壁の戦い」と並ぶターニングポイントとなった「官渡の戦い」。西暦200年(建安5年)、曹操と袁紹による中原の天下分け目である。今回は、その緒戦、白馬津(はくばしん)、延津(えんしん)の戦いにスポットを当ててみたい。


西暦200年、官渡決戦の舞台を中心とした勢力図。作成:ミヤイン 参考『中国歴史地図集 第二冊 秦・西漢・東漢時期』他

 

官渡決戦の前哨戦「白馬・延津の戦い」

 

 少しでも三国志に触れた読者であれば、顔良(がんりょう)、文醜(ぶんしゅう)の二将をご存じだろう。儒学者の孔融(こうゆう)いわく。顔良、文醜、勇冠三軍 統其兵……すなわち「顔良と文醜は天下の軍勢を統べる勇将、勝つのは難しかろう」。知の田豊や許攸とならび、袁紹軍の武の2トップにあがるほど両名の武は轟いていたとされる。

 

 いざ開戦し、やはり袁紹が真っ先に派遣したのが顔良。白馬津(以下、白馬と略す)が両軍最初の戦場となった。「津」とは、渡し場のこと。中国北部に横たわる黄河にはいくつか渡し場が置かれ、当然ながら戦略上の要地だった。訓読みでは「つ」で、日本にも安濃津(あのつ)、坊津(ぼうのつ)といった古い港町の名がある。

 

 当初、白馬は曹操領。劉延なる将が守っていた。先手を打ち、顔良がこれを攻め占拠を狙う。いっぽうの曹操は、その動きを予測して背後をとろうという動きをみせて袁紹軍を分断。関羽と張遼を白馬へ送り込み、結果、突出・孤立した顔良は関羽に首を討たれた。

 

「関羽、顔良の麾蓋(きがい/旗と笠)を見し、馬にむちうってこれを衆の中に刺し、首を斬りて還る。袁紹の諸将、これに当る者なし」(『三国志』蜀志関羽伝)

 

 ここは堂々、関羽一世一代の見せ場。正史での関羽の武勇は、ほぼこの一場面に凝縮されている。袁紹の大軍のなかに突き入って大将の首をとり、悠々生還。「一騎討ち」と呼べるかは怪しいが、その雄姿は彼がレジェンドとなるに充分だった。

 

 

官渡決戦の緒戦、白馬・延津の戦い概略図。作成/ミヤイン 参考『中国歴史地図集 第二冊 秦・西漢・東漢時期』他

 白馬から敵を追い払い、目的を達した曹操軍はすぐさま引きあげる。いっぽう、袁紹は「曹操を逃がすな!」とばかり、西の延津を渡ってこれを追う。そして次なる先手の将、文醜と客将の劉備に兵6000を与え、猛追を命じた。

 

 ところが、曹操の退却は策。曹操は輜重隊(輸送部隊)をエサに文醜をおびき寄せたのだ。引っかかった文醜は、曹操軍600人の奇襲に慌てふためき、首を討たれてしまう。劉備は逃げ帰って敗報をもたらし、袁紹軍は大いに動揺したという。

 

本当に「言われるほどの」惨敗だった?

 

 こうして、全くいいところなく討たれた二将。完全に前評判を裏切っての共倒れで、その「看板」は偽りだったのか。

 

 そもそも、彼らの出陣前から沮授(そじゅ/袁紹軍の参謀)が「顔良は勇敢ながら視野が狭く、一人で起用しては危険です」と忠告しているように、暗雲がただよってはいた。袁紹痛恨の失策であろう。

 

 いっぽうの曹操の軍中には圧勝の機運があった。荀彧(じゅんいく)は「顔良と文醜は匹夫の勇のみ。一戦で生け捕れます」と答えていたのだ。たしかにその通りになったが、ずいぶんと予言めいてはいないだろうか。

 

 正史を読むとわかるが、白馬・延津および「官渡の戦い」は、荀彧や荀攸など曹操の軍師の策がおもしろいように当たり、ついに劣勢をはねかえす。対する袁紹は、田豊や沮授の進言をことごとく退け、まるで自分から負けに行くように描かれている。

 

 さらに、最もその描写が顕著なのが兵力差。武帝紀には袁紹軍10余万、曹操軍の兵力は「1万に満たなかった」とある。その怪しさに裴松之が「いくらなんでも(曹操の兵が)少なすぎ」と長いツッコミを入れている。先の延津でも文醜軍6000に対し曹操軍600と、やはり10倍に記述される。顔良も文醜も、書かれたとおりならば無能とさえいえるが、本当にそれほどの惨敗だったのか。

 

 おそらく、曹操軍(魏)の大戦果として「官渡で10倍の袁紹に勝った」ことは、半ば伝説化していた。陳寿が『三国志』を編んだとき、すでに魏は滅んでいたが「魏志」として官渡の実情を書こうとしても偏った史料しかなく、バイアスをかけざるを得なかった。

 

 だとすると、顔良・文醜が当代を代表する武将だったなら、その評判が災いしたことになろう。

 

小説では華雄や趙雲に劣らぬ猛将ぶりを見せる

 

 小説『三国志演義』では、その様相が変わる。まず顔良が、曹操軍の前に「強敵」として立ちはだかるのだ。白馬で宋憲(そうけん)、魏続(ぎぞく)を討ち、猛将として名を挙げつつあった徐晃(じょこう)をもガチンコで撃退。衝撃の「三タテ」に曹操軍は声もない。

 

 “顔良の疾駆するところ、草木もみな朱に伏した” という、吉川英治『三国志』の描写は、その模様をよく表す。

 

 このときの顔良は、汜水関(しすいかん)の華雄(かゆう)以上の強敵の扱いである。かつて曹操軍の諸将は、六将で呂布に挑み退散させる頑張りを見せたのに、このときは許褚も夏侯惇も居ないのか、名乗りもあげない。

 

 さらに「強敵」感が増すのが文醜だ。延津の戦いでは、張遼を馬から射落とし、徐晃を敗走させる無双ぶり。その前にも、界橋で公孫瓚(こうそんさん)を敗走させ、それを救いに来た趙雲と互角の打ち合いを展開している。

 

 しかし、この「演義」で底上げされた彼らの勇猛ぶりも、武神・関羽には歯が立たない。顔良はたった一太刀、文醜もわずか三合で討たれ、赤兎馬の馬蹄の塵と化す。関羽は顔良のみならず、演義では文醜まで斬ってしまう。こうして袁紹軍の二枚看板は、曹魏を正義とする正史では曹操の「引き立て役」、劉備を善とする演義では関羽の「アンダードッグ」(かませ犬)にされてしまったのだ。

 

古い版本では無抵抗で斬られたという説明も

 

 参考に、もうひとつ。嘉靖本(かせいぼん)と呼ばれる、嘉靖元年(1522) 刊行の『三国志通俗演義』の記述から。これは現存最古の「演義」だが、関羽が顔良を討った一幕「雲長策馬刺顔良」に以下のような注釈がある。

 

 顔良は劉備(当時は袁紹の客将)から、関羽の風体を聞かされ「もし出会ったら劉備のもとへ来るように伝えてほしい」と頼まれた。このため、顔良は関羽の姿を見て話しかけようとするが、問答無用とばかりに斬られたというのだ。

 

 この注釈は、古い刊本とともに失われていき「演義」の汎用版「毛宗崗本」(もうそうこうぼん)などでは見当たらなくなる。小説の関羽はヒーローでなくてはならず、なかば無抵抗の相手を斬るのは具合が悪かったのだろうか。

 

 「官渡決戦」は全般的に持久戦が続き、戦いとしては地味な描写にほぼ終始する。「演義」での白馬・延津は、それに華をそえる武人の活躍が付け加えられたのだろう。「やられ役」顔文コンビも、関羽に討たれるまでの活躍は作中屈指の猛将ぶりといえる。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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