家康が欲した浅野長政の貴重な「立場」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第62回
■豊臣家と密接な関係にあった浅野長政の「立場」

滋賀県大津市浜大津に立つ大津城跡の石碑。賤ヶ岳の戦いで戦功をあげた長政は、瀬田城に入ったのちに坂本城へ移り、さらに大津城を築城して本拠地とした。
浅野長政(あさのながまさ)は豊臣政権の五奉行の筆頭格でありながら、関ヶ原の戦いでは豊臣家を見放した豊臣譜代の一人というマイナスイメージがあると思われます。
長政は豊臣家とは北政所(きたのまんどころ)を通じて縁戚関係にあり、数々の戦でも活躍し、また内政面においても検地奉行を務めるなど、天下統一事業のために尽力した功臣です。
秀吉死後も、五奉行の筆頭として政権の維持に努めますが、同僚からの密告で失脚させられ、半ば強引に徳川方へと取り込まれていきます。その背景には、豊臣家と縁戚関係にあり、かつ古参家臣であるという長政の貴重な「立場」があったと思われます。
■「立場」とは?
「立場」とは辞書等によると、「その人が置かれている地位や境遇」や「 その状況から生まれる考え方。観点または立脚点」とされています。似た言葉に「地位」がありますが、こちらは「社会的な評価や序列に基づいた、客観的な位置」をさします。
「立場」は社会的な序列や身分を元に、物事を考える視点を表します。そのため、自分の置かれている位置からの観点を示す場合によく使われます。
長政は広義での豊臣一門衆としての「立場」と、豊臣政権の古参家臣としての「立場」に翻弄されていくことになります。
■浅野家の事績
長政は、尾張国春日井郡の国人安井家が出自と言われています。そして織田信長に仕えていた浅野長勝(ながかつ)の婿養子となり、浅野長吉と名乗ります。秀吉の死後に、長政へ改名します。
同じく長勝の養女を娶った秀吉とは相婿(あいむこ)となり、信長の命により豊臣家の与力として仕えることになります。長政は秀吉が小谷(おだに)城主になると、近江国内に120石を得ています。そして、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでの活躍により近江国大津2万石を領し、大名となります。
合戦で活躍する一方で、内政官として京都奉行や伊予など各地の検地などでも手腕を発揮しています。九州征伐での活躍も合わせて、若狭国小浜8万石の国持大名となります。小田原征伐では戦後処理などを主導し、奥州仕置(おうしゅうしおき)では豊臣政権軍を率いて一揆を制圧し、戦後処置の中心を担っています。
さらに、文禄の役では総奉行として名護屋城の築城を指揮しています。一方で嫡子幸長(よしなが)は軍勢を率いて渡海し、加藤清正(かとうきよまさ)たちと共に各地で活躍しています。
これらの功により、父子で合わせて甲斐国22万5千石を与えられ、宇都宮家や那須家などの関東諸侯、および伊達家や南部家の東北諸侯の取次役となっています。
この時、豊臣家の重臣として徳川家など関東の勢力を抑える役割も担っていたと言われています。しかし、1596年に起きた秀次事件に幸長が巻き込まれ、長政も苦しい「立場」におかれます。
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