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山梨県の甲府市と甲斐市にまたがる景勝地【日本遺産 御嶽昇仙峡】の歴史と発展

 


山梨県の甲府市と甲斐市にまたがる人気の観光スポットである御嶽昇仙峡。同エリアは令和2年(2020)6月、「甲州の匠の源流・御嶽昇仙峡~水晶の鼓動が導いた信仰と技、そして先進技術へ~」として日本遺産に認定された。日本有数の水晶の産地であり、多くの信仰を集めた金櫻神社と御嶽古道を擁する昇仙峡は、江戸時代から続く水晶研磨技術や、貴石研磨技術から連綿と続くジュエリー産業の隆盛など、様々な特徴をもっている。現在は観光地として知られるが、歴史の中ではどのような場所であり、だれが現在のような場所へと発展させたのか。意外と県外だけではなく県内の方にも知られていない歴史や発展に貢献した人物などについて、ここでは掘り起こしていきたい。


 

金峰山の五丈岩
昇仙峡として日本遺産に登録され、その構成遺産ともなっている五丈岩からは富士山が望める。

 

 山梨県の甲府市と甲斐市にまたがる景勝地・御嶽昇仙峡(みたけしょうせんきょう)は「日本五大名峡」の1つに数えられ、日本一といわれる渓谷美で知られる。奥秩父山系の主峰・金峰山(きんぷさん、標高2599㍍)に源を発する荒川流域のうち、長潭橋(ながとろばし)から仙娥滝(せんがたき)までの全長5キロにわたる渓谷は、荒川の流れが花崗岩を深く浸食したことで形成され、奇岩・怪岩(大砲岩・豆腐岩・駱駝石・富士石・登竜岩など)が数多く見られる。また、高い崖に切り立って見える覚円峰(かくえんぽう)や天狗岩の絶壁は見る者を圧倒する。これらは地質と自然の織りなす渓谷美であって、全域が観光名所になっている。また、昇仙峡を含む山岳地帯は、秩父多摩甲斐国立公園に指定されている。

 

覚円峰
昇仙峡観光でもアイコニックな岩として全国的にも著名になっている。

 

 昇仙峡は、大正12年(1923)に国の名勝に指定されたがまだ全国に知られるまでには至らなかった。しかし昭和25年(1950)、毎日新聞社主催の「全国観光地百選・渓谷の部」で1位に選ばれたことで全国的に有名な観光地となった。その後、昭和28年(1953)3月には、国の特別名勝に指定された。そして年々、観光客の数が増加するとともに狭い道幅を拡幅する工事も始まり、昭和47年(1972)には「御岳昇仙峡有料道路」(現在は無料)が開通し、大型観光バスの乗り入れが可能な駐車場も整備された。現在では山梨県を代表する観光地となり、休日や大型連休には、観光客であふれる人気の場所となっている。

 

金櫻神社
御岳町にある金峰山をご神体にした神社、金櫻神社。

 

 昇仙峡には数々の古くから残る歴史の話がある。そのもっともたるのが北方の奥まった場所に建つ金櫻神社(かなざくらじんじゃ)である。金櫻神社は、金峰山を山宮とするのに対しての里宮であり、その社名は金峰山が金銀銅の精気に満ちている山であり「金の花、いやが上に咲き出づる」という褒め言葉によると伝えられる。また、この神社には「金を以て神と為し、櫻を以て霊と為す」という言葉も残されていて、境内にはかつて「金櫻(かなざくら)」と呼ばれた老木があった。現在は新しい金櫻が植えられており、春には黄金色の花を着け、訪れる参拝者の目を楽しませている。

 

御神木の「金櫻」
古くから民謡に唄われている「金の成る木の金櫻」として崇められており、金運アップのご利益のある神社として知られている。

 

 なお、金峰山は甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)の境にそびえ立つ山で、山名は奈良の吉野の金峰山から移してきた。山頂には花崗岩の巨大な奇岩・五丈岩(ごじょういわ。御像岩とも呼ばれる)がある。

 

 さらに、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰りに相模国(神奈川県)から信濃国に道を取り、甲斐国を通って行った際にも金峰山に登ったという言い伝えもある。日本武尊は、この山に霊気を感じ、御像岩の下に社殿を建てるように命じ、須佐之男命(すさのおのみこと)とその子孫である大己貴命(おおなむちのみこと)を祀って本宮とした。

 

日本武尊
日本武尊が甲斐を訪れたとき、酒折宮という神社で連歌を歌ったことでこの場所が連歌発祥の地といわれるようになったという逸話を残している。(東京都立中央図書館蔵)

 

 その後、雄略(ゆうりゃく)天皇の時代の465年に、神のお告げによって現在の地に金櫻神社を創建し、本宮の3柱神を奉遷して祀り、里宮とした。神社には、名匠・左甚五郎による上り龍・下り龍の彫刻があった。何度か再建されてきたが、いずれも三社流れ造りであり、方三間の入母屋(いりもや)・檜皮葺(ひわだぶき)の建物であった。だが、昭和30年(1955)の失火によって焼失してしまった(現在は再興されている)。

 

 さらに金櫻神社は蔵王権現(ざおうごんげん)なども合祀されており、修験の山としても有名になっていた歴史もある。役行者(えんのぎょうじゃ)に縁の修験者たちが金峰山に入って修行をし、修験の場ともなり、南北朝時代には東日本の山岳信仰の聖地になっていた。

 

常説寺に残る輿
山岳信仰の聖地として全国で知られるようになった金峰山。御岳古道中にある常説寺には、鎌倉時代承久年間に順徳上皇が甲州御嶽金峰山へ奉幣のために使用した白木の輿が残っている。

 

 

 しかしこの時点で昇仙峡は修験者や神社関係者には知られていたが、一般にまで広く知られる場所ではなかった。昇仙峡が一般に知られるようになったのは意外に新しく、江戸時代の天保年間以後のことである。

 

金櫻神社への参拝道の御嶽古道。

 

 昇仙峡の周辺には、御岳・猪狩・平瀬・川窪・黒平村などいくつかの村があったが、当時、村人たちはわざわざ御嶽古道(外道)を歩き、薪炭や農作物を甲府まで運び出すのに苦労した。そこで、猪狩村の長百姓(おさひゃくしょう)・長田森右衛門が、猪狩村から下帯那(しもおびな)村・和田村を経て甲府の市街に出る御嶽新道の開発計画を立てたが、病死によって中断となった。そこで孫の長田円右衛門が祖父の遺志を継いで計画を練り直し、着工したのは天保5年(1834)12月のことであった。37歳の円右衛門は、仙娥滝裏の昇仙峡・荒川左岸に重点を置いて難工事に挑んだ。これが甲府に出る最短距離10㌔の開発になった。

 

長田円右衛門
昇仙峡の開発に尽力した功労者。(昇仙峡観光協会提供)

 

 ただ当時は、幕府などからの補助金はない。すべて円右衛門はじめ、関係者の自費で賄った。円右衛門は、まず金策から始めた。労力は地元民が担った。一番の難工事は、仙娥滝下の吊るし岩と呼ばれていた大岩に隧道(トンネル)を人力で削岩することであった。

 

 その間には荒川の氾濫に見舞われたり、大飢饉があったりして、その度に工事は中断せざるを得なくなった。後に甲府代官所が後押しをしてくれて再開した工事は順調に進み、天保13年(1842)10月末に、10㌔の全行程が完成した。中断などで5カ年計画が8カ年に延びたが、御嶽新道は延べ労働人員数1967人、工費77両2分(人件費はボランティアのため工費の大半は材料費など)であった。円右衛門は、完成後もさらに1年以上を掛けて補修工事を行った。さらに補強工事にも年数を掛けた円右衛門は、完全な新道に出来上がると、甲府勤番士・甲府の町衆などを招いて歌会や画会を開き、昇仙峡の美しさを宣伝した。

 

 こうした苦労があって、御嶽昇仙峡は現在の景勝地になったが、晩年の円右衛門は貧しい暮らしの中で過ごし、安政3年(1856)6月9日、62歳で病没した。昇仙峡の恩人ともいえる円右衛門の顕彰碑は、難工事だった場所・腰越登山道の脇に建てられている。

 

水晶発祥の地といわれる御嶽昇仙峡の水晶。

 

 ここからは江戸時代から、日本有数の水晶の産地として発展してきた昇仙峡の歴史と発展について、紹介していきたい。

 

 山梨県の県庁所在地・甲府は現在「宝石のまち」として知られ、宝飾品の研磨・加工技術もドイツ・ダオーベツシュタインと並んで、世界屈指の力を誇っている。これらの技術は景勝地として、また歴史ある場所として知られる昇仙峡一帯の花崗岩に由来する。水晶は、花崗岩の割れ目を埋めている石英脈の中に出来る。昇仙峡のさらに北側にある奥御岳は、花崗岩地帯であることから水晶があちこちから産出した。その産出地は、そのものずばりの地名・水晶峠や乙女鉱山などが知られる。

 

史跡・銚子塚古墳と丸山塚古墳
甲府にあり、水晶製の勾玉が出土している。(山梨県立考古博物館提供)

 

 水晶は数千年前から利用されており、縄文・弥生時代の遺跡からも水晶で作られた遺物が出土している。古墳時代になると、日本各地で水晶製の勾玉(まがたま)が作られており、甲府市南部周辺にある古墳時代の遺跡(銚子塚古墳など)からも、水晶製の勾玉が出土している。 一般的な水晶加工は近代になってから盛んになったが、一説によれば、天保5年(1834)に京都の玉屋弥助という人物が水晶の原石を買いに甲府・御岳に来て、金櫻神社の神官などに玉造りの手ほどきをし研磨技術を教えたのが、甲府の水晶加工の始まりであったという。それからは水晶加工の技術が進歩し、江戸末期には神社などで使う水晶玉だけでなく、印鑑・玉兎・文鎮・装身具・飾り石なども作られるようになった。

 

 幕末の頃には加工業者も増え、横浜開港とともに欧米への輸出も始まった。明治中期になると、水晶採掘も全盛期を迎え、甲府の研磨宝飾業も盛んになった。山梨県の第5代県令(知事)・藤村紫朗(ふじむらしろう)は、明治9年(1876)に甲府城内に勧業試験場を建設したが、ここには水晶工場が設けられ、優秀な水晶製品を県外ばかりか海外へも売り出すなど水晶産業を大きく盛り上げる振興策を立てている。さらに、この水晶工場では、水晶の加工研磨の技術を向上させるために1年にわたる講習会を開くなどした。こうした結果、多くの技術者が養成され、明治時代に研磨技術の最高峰として作られ金櫻神社に奉納された水晶玉は大型で径5寸7分(約17・3㌢)もあった。

 

 こうした経過もあって、甲州水晶貴石細工は昭和52年(1977)に通産商業大臣指定の「伝統的工芸品」に認定された。

 

日本遺産 御嶽昇仙峡の詳細やおすすめのモデルコースはこちらから!

 


監修・文/江宮隆之

えみや たかゆき/1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『二人の勘助 風林火山外伝』(桐原書店)、『山梨「人物」博物館―甲州を生きた273人』(光芒社)など多数ある。


 

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令和3年に世界遺産として登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」をきっかけに、注目を集めている縄文時代の謎を特集。約1万3000年前と考えられてきたはじまりが、実は1万6000年前であったことなど、最新研究で判明している縄文時代の謎をひもといていく。