秀吉を警戒させた豊臣秀次の「影響力」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第66回
■秀長と利休の亡き後の豊臣秀次が有した「影響力」

滋賀県の八幡公園(近江八幡市宮内町)内に立つ豊臣秀次像。秀次は、近江八幡城を築城し城下町を開き、商業都市としての基盤を築いた。
豊臣秀次(とよとみひでつぐ)は、「天下人の甥」という血縁関係によって高い地位を得たものの、嫡子秀頼(ひでより)の誕生と殺生関白と噂された人間性を原因に、切腹させられた無能な武将というイメージが一般的には強いかと思われます。
しかし、秀次は経験豊富な与力や家老の力を借りつつも、小田原征伐や奥州征伐で遠征軍の指揮官としての経験と実績を積んでおり、内政においても実績をあげています。また、茶の湯や連歌などを愛し、古書を保護するなど教養人としての活動も多く、文化の保護者としても期待されていたようです。
このような、豊臣政権内における秀次の「影響力」の高まりが、秀頼の将来を危惧する秀吉の警戒心を煽ったとも考えられます。
■「影響力」とは?
「影響力」とは辞書によると「自らの言動によって、他者に働きかけ、考えや動きを変えさせるような力」とされています。現代でも、組織内において成果を上げるために、周囲から協力を得る時に必要な力です。リーダーシップを発揮する際に、必要な力とも言われています。
一方で「影響力」を持つ事で、他者からの妬みや嫉みを受けるようになります。また、その言動一つが周囲を巻き込むため、責任の重圧によって決断が遅れてしまうこともあります。
秀次が有していた巨大な「影響力」は、政権を運営する後継者として見なされていれば歓迎されるものですが、異なる場合は警戒の対象にもなります。
■豊臣秀次の事績
秀次は、秀吉の姉ともと弥助との間に長男として生まれています。尾張国大高村を出自とされていますが、秀吉同様に詳細は不明です。姉川の戦いの後、秀吉による調略の際に、宮部城主の宮部継潤(みやべけいじゅん)への人質として送り出されています。養子という形であったため、一時的に宮部吉継と名乗っています。その後、信長による四国征伐、もしくは本能寺の変の前後に、三好康長(みよしやすなが)の養子とされ、三好信吉と名乗ります。
山崎の合戦後に、信長の乳兄弟である池田恒興(いけだつねおき)の娘を正室に迎えて、秀吉の一門として有力者との縁戚関係を結ぶ役割を担っています。秀次は子どものいない秀吉の政略に利用されていました。
小牧長久手の戦いでは、主将として出陣し、家康の奇襲により大敗を喫していますが、紀州征伐や四国征伐では副将として参加し、遠征軍の勝利に貢献しています。近江国に自領として20万石、与力や重臣たちの領地を含めると43万石を拝領しています。
そして小田原征伐では、秀長の名代として、家康の副将という立場で出陣し山中城を陥落させました。続く奥州征伐にも参加し、九戸政実(くのへまさざね)の乱では総大将として遠征しています。戦後の論功行賞により、尾張国と伊勢国北部などを合わせて100万石の大大名となっています。
1591年に秀吉の弟秀長と、嫡子鶴松が死去すると、秀次は豊臣一門における数少ない男子となります。そして、豊臣家の後継者と定められ、秀吉から関白職を譲られます。
こうして血縁だけでなく、実績と経験を積みながら、政権内における秀次の「影響力」は高まっていきますが、秀頼の誕生によって環境は一変します。
- 1
- 2