古代史最大級の謎「天孫降臨」の舞台とは? 『記紀』の世界を体感する高千穂町~馬ケ背の景勝地
天孫降臨の舞台として注目を集めるのが、宮崎県高千穂町である。そこには、数々の神話に彩られた名舞台があまた存在している。悠久の歴史散策には、これ以上ないと思われるほどの魅惑の地というべきだろう。合わせて、馬ケ背の大絶景も迫力満点だ。今回は、『古事記』『日本書紀』の世界を体感できるエリアの魅力をお届けする。
■天孫降臨の名舞台ひしめく高千穂町
天孫降臨の舞台はどこか?これは、古代史における、最大級の謎の一つである。出雲の国に建御雷神(タケミカヅチ)を送り込んで、大国主神から葦原中国の支配権を奪い取った天照大神。天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)にその支配権を与えて天高原から葦原中国へと天降らせた、それが天孫降臨である。

歌川国芳画『日本国開闢由来記』巻二「天津日子番能邇邇芸命降臨於筑紫日向之高千穂槵触峰図」/大英博物館蔵
『古事記』によれば、その地は、「筑紫の日向の高千穂の峯」で、「遠く海を隔てて韓国を望み、笠沙の岬を正面に見て、朝日の射す国、夕日の照り輝く国」であったとか。一方、『日本書紀』では、命を下したのは高皇産霊尊(タカミムスビのミコト)で、瓊瓊杵尊を真床追衾(まことおふふすま)に包んで「日向の襲の高千穂の峯」に降り立たせたとする。両書とも「高千穂の峯」に降臨したとするが、それがどこだったのか、今日まで明確にできずにいるというのが実情である。
その比定地として考えられるのは、主として、宮崎県高千穂町と宮崎県と鹿児島の県境にそびえる高千穂峰の二ヶ所と言うべきだろうか。どちらがその比定地か、古くから侃々諤々の議論が飛び交っていることも、よく知られるところだろう。ともあれ、今回紹介するのは、その前者、宮崎県高千穂町である。
そもそも、この地が「天孫降臨」の地と見なされるようになったのには訳があった。発端は、本居宣長が著した『古事記伝』である。そこに、天孫降臨の比定地として、西臼杵郡(高千穂町)と霧嶋山(高千穂峰)の両方の名が記されていたこと、それが皮切りであった。「かの臼杵郡なるも、又霧嶋山も、共に其山なるべし、其は皇孫命初て天降坐し時、先二の内の、一方の高千穂峯に、下着賜ひて、それより、今一方の高千穂に、移幸しなるべし」(『古事記伝』十七之巻)」と記し、高千穂町と高千穂峰のどちらか一方に降り立った後、もう一方へ移動したという。それでも、その後笠沙御崎にたどり着いたというところから鑑みれば、最初に高千穂町側に降臨、その後笠沙御崎にも比較的近い高千穂峰へと遷坐(せんざ)していったと考える方が自然というべきだろう。
何はともあれ、高千穂町での史跡めぐりを始めたい。天岩戸神社を除いて、ほぼ2㎞四方の狭いエリアに点在しているから、徒歩での周遊も十分可能だ。まずは、瓊々杵尊が降臨したとされる槵觸峯(くしふるみね)を目指そう。『日本書紀』の一書に記された「筑紫の日向の高千穂の槵触峯」というのがここで、猿田彦大神に案内されて降り立ったと見なしている。
その山の中腹、階段を上りきったところに、元禄7(1694)年に建立されたという槵觸神社がある。瓊々杵尊をはじめ、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)、天太玉命(アメノフトダマノミコト)、経津主命(フツヌシノミコト)、瓊瓊杵尊などを祭神として祀っている。ここからうっそうと生い茂る森の中の小径をたどっていけば、瓊々杵尊らが高天原を仰ぎ見たという高天原遥拝所や、神日本磐余彦尊(神武天皇)ら四皇子の誕生の地と伝えられる四皇子峯へとたどり着く。いずれも訪れる人も少なく、静寂に包まれたところだ。
また、天照大神ゆかりの天岩戸神社にも足を伸ばしておきたい。弟・素戔嗚尊(スサノオノミコト)の乱暴に困り果てた天照大神が天の岩屋戸に隠れたとされたところである。その岩屋戸を聖域として祀っているのが、天岩戸神社の西宮。五ヶ瀬川をはさんだ、その対岸が聖域で、拝殿背後の遥拝所から神職の案内で拝観しておこう。

天岩戸神社の西本宮拝殿
ここから500mほど岩戸川上流にあるのが、八百万の神が天照大神を岩屋戸から出すための相談をしたという天安河原、別名・仰慕ヶ窟(ぎょうぼがいわや)と呼ばれる洞窟である。間口30m、奥行き25mという広いもので、日中でも日が差し込まず、少々鳥肌が立つような幽玄の世界。願い事が適うといわれることもあってか、そこかしこに小石が積み上げられているのも幻想的だ。

天安河原
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