日本に「アヘン」はどのくらい入ってきていたのか? 江戸時代には「疲労回復」の秘薬だった
世界の中の日本人・海外の反応
ケシの実からつくられる麻薬・アヘン。19世紀にはイギリスが中国(清)にもたらしたアヘンをめぐってアヘン戦争も起きており、清では中毒者の急増が深刻な社会問題となった。日本でも江戸時代、津軽地方でアヘンが栽培されていたのだが、日本人にとってアヘンはどのようなものだったのだろうか?
■江戸時代には漢方として用いられたアヘン
麻薬と言えば、コカイン、モルヒネ、ヘロインなどが有名で、どれも植物を原料とする。コカインがコカという植物の葉に含まれるアルカロイド(天然由来の有機化合物)を主成分とするのに対し、モルヒネとヘロインはアヘンという麻薬を、アヘンはケシという植物の実から採取されるアルカロイドを主成分とする。
アヘンには鎮痛作用があるため、東アジアでは古くから医療現場で利用され、戦国時代に南蛮船によってケシの種がもたらされると、津軽地方(現・青森県)でケシの栽培が試みられた。
津軽の気候・土壌に合ったのか、江戸時代には「一粒金丹」という漢方薬が発明され、気分高揚、疲労回復、解熱、下痢止めなどの効果が認められた。当初は藩関係者にのみ下賜される秘薬だったが、のちには出入りの業者や特許商人にも卸されるようになった。
■アヘンの蔓延がもたらした破壊的な影響
だが、薬になるか毒になるかは紙一重の違いで、隣の清国(中国)ではイギリスが絹や陶磁器を輸入する代価としてインド産のアヘンを利用したことから、身分の上下に関係なく、清国全体にアヘンの吸引が広まるようになった。
日頃、栄養豊富な食生活を送り、高品質なアヘンを適度に吸うぶんには害はないが、ろくに食事も摂らず、低品質のアヘンばかりを吸い、アヘンなしには生きられない依存症に陥ってしまうと、精神的な混乱や身体機能の低下で死期が早まるのは避けられなかった。
アヘン中毒患者の増加は大きな社会問題となり、輸入量の増加に伴い、代価として銀の国外流出が加速すると、深刻な貿易摩擦が生じ、その果てに起きたのが二度に及ぶアヘン戦争で、清国が列強の半植民地と化すきっかけとなった。
■江戸幕府はアヘンの使用を制限したが、一定数は流通
清のこうした状況はオランダを通じて日本にも伝えられていたため、幕府も諸藩もアヘンの使用を医療行為に限るよう徹底させた。仮に日本と清国の位置が逆であったなら、重度のアヘン中毒者を多数抱えさせられたのは日本であったかもしれず、アジアの東端にあること、それも島国であることが幸いした形だった。
幕末の武士や商人は清国の轍を踏むまいと、麻薬としてのアヘンの吸引と販売に消極的だったが、いつの世にも好奇心が強すぎて抑えの利かない者、利益があがるなら売らない手はないと考える商人はいて、戦前・戦中の日本にも一定数のアヘン中患者が存在した。
他に強力な麻薬が登場してもアヘンの需要がゼロになることはなく、モルヒネやヘロイン、コカイン、大麻などとは比較にならないほど少数だが、現在の日本でもアヘン中毒患者が年間千人単位で確認されている。

ケシの花