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美貌だが激しい気性をもった女城主。立花道雪の娘であり、「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と呼ばれた立花宗茂の正室【立花誾千代】

歴史を生きた女たちの日本史[第4回]


歴史は男によって作られた、とする「男性史観」を軸に語られてきた。しかし詳細に歴史を紐解くと、女性の存在と活躍があったことが分かる。歴史の裏面にあろうとも、社会の裏側にいようとも、日本の女性たちはどっしり生きてきた。日本史の中に生きた女性たちに、静かな、そして確かな光を当てた。


 

現在、人気の観光地なっており、江戸時代は大いに栄えた柳川。立花誾千代・宗茂夫妻が一時期、城主となったことも隆盛の一因となっている。

 

 戦国、豊後の名家・大友家(君主は義鎮・のちの宗麟)には「二本柱」ともされる2人の重臣がいた。高橋鎮種(しずたね/のちの高橋紹運)と戸次鑑連(べっきあきつら/のちの立花道雪)である。2人は年齢が離れていたが、お互いを認め合う関係であった。初陣の紹運の嫡男・統虎(むねとら。のちの立花宗茂)の武勇に惚れ込んだ道雪が「是非とも私の婿に」と申し入れた。というのも、道雪には、ひとり娘・誾千代(ぎんちよ)しか跡取りがいなかったからだ。結果として、宗茂は道雪の婿養子に入る。天正9年(1581)春のことである。

 

 相手の誾千代は、15歳の宗茂よりも2歳年下だったかが、実は7歳の時に道雪が隠居して1人娘の誾千代に家督を譲っていたから、誾千代は7歳にして1城の主になっていた。幼い頃から武術を磨き、学問に精を出し、あらゆる兵法も父・道雪から教えられて育った誾千代は、普通の男ではもちろん物足りない。それほどに気性は激しかったし、男勝りというよりも「男そのもの」の生き方をしてきた。そのうえ、恵まれた美貌の持ち主であり、家臣団も、誰よりも誾千代を敬愛し、大事に育て上げたようとした。

 

「誾」という名前には、「和らぐ」とか「慎む」と行った意味が込められている。誾千代に女らしさを望みながら、唯一の娘であったから「武勇」までを父・道雪は期待したのであった。

 

 この婚姻によって、宗茂は九州随一と呼ばれる武将2人を父とすることになった。子どもの頃から見知っていた誾千代という女性に対して、宗茂は男勝りで勝ち気に振る舞う様子に反発はあったが、その美貌ときびきびとした振る舞いには惹かれていた。とはいっても、養子である宗茂は、立花山城の新しい城主として家臣団にも徐々に信頼されるようになっていく。一方で誾千代は、女城主であった誇りを捨てられず、夫・宗茂に主導権が移っていくのを許せない風を見せた。

 

 そうこうするうちに、道雪が戦病死する。大友家は、薩摩の島津勢に攻められ、風前の灯火になる。そこで、大友宗麟は関白・豊臣秀吉に嘆願して、九州に援軍を入れる。高橋紹運は戦死するが宗茂は島津勢を相手に武勇の限りを尽くした。そして島津勢は敗れるが、秀吉は「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と褒め上げて宗茂を自らの家臣として大名に取り立てる。筑後4郡13万2千石余りの大名である。6万石からの出世だが、誾千代は立花山城に未練を残し、移住を承知しなかった。宗茂は、朝鮮出兵でも、大活躍を果たす。

 

 しかし、誾千代との心の距離は縮まることないまま、秀吉の死を迎え、さらに関ヶ原合戦を迎える。誾千代は「東軍・徳川家康に付くべき」と見解を述べたが、宗茂は「いや、俺は義に生きる。石田三成に味方する」賭して西軍に付いた。2人の見解の相違は、ここまでぶつかり合うようになっていた。

 

 東軍勝利の結果、西軍として敗れた宗茂は柳川城に逃げ帰り籠城したが、加藤清正の呼び掛けに応じて開城した。清正は、宗茂夫妻を肥後高瀬に移るようにしたが、誾千代は頑として応じない。そして、敗軍の将となった夫・宗茂への恨みを残したまま慶長7年(1602)10月17日、34歳の生涯を閉じた。個性がぶつかり合ったまま、ついに和解することのなかった宗茂・誾千代夫婦であったが、元和6年(1620)、宗茂が柳川の地に10万石で「奇跡の大名復活」を遂げると、誇り高かった女城主・誾千代のために良清寺を建立してその菩提を弔ったのである。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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