昭和100年に思う「人生案内」…「生活者」の歴史と寄り添ってきた意義
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「世は挙げて不景気のドン底に
1931年(昭和6年)、読売新聞朝刊「婦人ページ」に、人生相談コーナー「悩める女性へ」新設の告知が掲載された。編集局の机上には相談の書面が山積みになり、直接本社へ相談に来る読者もいるという。
今も読売新聞のくらし家庭面に続く「人生案内」昭和版の再スタートだった。(人生案内のページは こちら )
前身は大正3年開設の「身の上相談」

読売新聞はこれより前、14年(大正3年)に「身の上相談」欄を開設。日本初の本格的家庭面「よみうり婦人付録」に掲載された。中断をはさみ、タイトルを変えながら、「昭和100年」にも伴走してきた。
昭和版「人生案内」の最初の相談は、夫、4歳の娘、義父と暮らす28歳の女性から。表面上は幸せに暮らしているが、夫の留守に義父が時々関係を迫ってくる。体よく避けているが、情けない。それとなく夫に別居を勧めても「親不孝者」としかられる。夫と義父の間で悩んでいる。「どうぞ!光明をお与えくださいませ」と相談は結ばれている。
回答者は、戦前期のこのコーナーを支えた河崎夏子(河崎なつ)。教育者、評論家などとして活躍した。
回答は、この問題の背景を、昔ながらの家族制度が生む欠陥の一つで、根本の原因は同居にあると説く。夫の考えは古い型の親孝行であり、夫に事情を正直に話し、別居すべきだと勧める。知人に同じような悩みを抱えた女性がいたが、夫に打ち明けられず自殺した。決して
昭和初期に、先進的な回答だった。個人の悩みを、社会問題の中で捉えようとし、打開策を示している。
この後も、恋愛、結婚、夫の浮気、子どもの心配など様々な相談を取り上げながら、コーナーは続く。中断したのは、37年(昭和12年)6月。7月に日中戦争が始まった。
「大東亜戦争末期には、ついに身上相談欄は、まったく姿を消す。最後の身上相談欄が、主婦の友に出たのは昭和一六年七月、読売新聞に出たのが昭和一二年六月……日本の国家の動きは、公けのコミュニケイションの場面から、個人的生活の問題の発表を追放した」(「身上相談」、1956年刊、思想の科学研究会編)。コーナーが「人生案内」として再開されたのは、戦後の49年(昭和24年)だった。

「読んでおくことは予習の役を果す」
哲学者、評論家の鶴見俊輔らによる「思想の科学研究会」は戦後、生活する一人一人の哲学や思想を重視した研究活動を続けた。研究対象の一つが「身の上相談」だった。
鶴見は同書に以下のような印象深い見解を記している。
古人の先例、今人の意見は、さまざまの形をもっている。文学・歴史・科学・哲学。それらは重大だが、それらと別に、不当に軽んじられている一つの分野がある。それは、新聞雑誌上の身上相談のコラムである。
身上相談者の共通について読んでおくことは、未婚の若い人々にとって、一種の予習の役を果す。自分たちが、この共通履歴からよりよく逸脱できるようにあらかじめ考えておくことができるわけだ。
身上相談を投書しようという瞬間が、自己否定の契機によるものであるのに対して、身上相談の問題を投書の形で書いている中に、何らかの仕方で自己をよいものとして新しく発見できる方向(自己肯定の契機)に進むことが、必要である。このことが、数多くの成功した身上相談の例の示す法則である。ディスカスしてくれる他人の助けをかりて、このみにくくみえる自分の中から、よいものを見出すということが、身上相談の方法なのである。
男も身上相談的な思考方法をもっと利用することが望ましい。
現在でも通じる点が多く、人生相談の意義をよく表していると思う。

社会学者の見田宗介は読売新聞の人生案内を
例えば秋田の主婦からの、新潟に住む妹一家についての相談。運転手をしていた妹の夫が急死、生活が苦しいと手紙で泣いてくる。田舎のことで葬儀などでやかましく、力にもならぬ親類が大勢集まって、一生の別れだと酒ばかり飲んでいる。テレビの月賦は残っているが、子どもの心を思うと売る気になれない……。