いつまでも「新○○」、今は昔の「ニュー○○」
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まもなく4月。入学や就職で、世の中に新人があふれる季節だ。
「新」のつく言葉を見ると、さて、「新」を名乗ってよいのはいつまでだろうか、と思うことがある。プロ野球の「新人」やコメの「新米」などには明確な定義がある一方、「新進気鋭」「新婚」など、いつまでを指すのかがあいまいな表現もある。
そして、「新」を含む呼び名が定着してしまったものもある。代表格が、新幹線だろう。

もはや固有名詞の「新幹線」
東海道新幹線が誕生したのは1964年(昭和39年)。現在還暦の筆者が生まれたのと同じ年だ。物心ついた時から走っていたのでそういう名の列車だと自然に覚えてしまったけれど、よく考えれば「新しい幹線」という意味のはず。同い年の自分が「新」を冠したら厚かましいけれど、鉄道ではどうだろう。

新じゃない方の幹線である東海道線が全面開通したのは1889年(明治22年)7月1日だ。前日6月30日の読売新聞朝刊は、社説で〈鉄道布設の結果は社会事物の偏在を破却して
その後、輸送力を強化する計画が持ち上がり、1939年(昭和14年)11月7日朝刊では〈東京下関間新幹線 答申案可決さる〉と、当時の鉄道省が設けた鉄道幹線調査会によって新たな幹線を敷設する方針が決定されたことを伝えている。やがて用地買収やトンネル工事が着手されたが、戦況悪化によって工事も計画も中止。それらは後の新幹線に活用された。
現在の新幹線のはじまりは戦後。57年(昭和32年)11月8日朝刊社会面に〈新しい東海道線 幹線調査会で建設決議〉という見出しで、〈運輸大臣の諮問機関として設けられた国鉄幹線調査会〉が〈「早急に東海道線に新しくもう一つ複線を建設する必要がある」〉と決議したことを伝えている。以後、正式に計画が決定して、着々と工事が進んでいくわけだが、しばらくは記事や見出しに〈新東海道線〉と〈東海道新幹線〉が混在している。

いつ「東海道新幹線」が正式名称になったのか、紙面からは確たる情報が得られなかったので、1984年(昭和59年)に国鉄(当時)の新幹線総局が発行した『写真とイラストでみる新幹線――その20年の軌跡』をひもとくと、昭和39年(1964年)3月24日に〈正式名を「東海道本線(新幹線)」と決定〉との記載がある。また、国鉄を経てJR東海の社長、会長を務めた須田寛さんの著書『東海道新幹線50年』(交通新聞社、2014年)には〈開業時の線名については、当初東海道高速線とすることにされていたが、
一般公募で命名された「ひかり」「こだま」と異なり、「新幹線」の名が大々的に発表された形跡が紙面に見当たらないのは、既成事実を追認して決まったからのようだ。それが後続の山陽新幹線以降も使われ続け、今や「新幹線」という固有名詞になっている。
集団移住で生まれた「新」も

「新」を冠した固有名詞には自治体の名もある。
かつて長崎県の五島列島を取材で訪れたことがあるが、北側は新上五島町だった。全国を見渡すと、新ひだか町(北海道)、新温泉町(兵庫県)などもある。この3町は、いずれも平成の大合併で複数の自治体が合併して生まれた。合併前の町名や、既存の別の町名と区別するため「新」を冠したと思われる。
独自の長い歴史があるのは北海道の新十津川町だ。町名の由来は1889年(明治22年)に遡る。10月19日朝刊に〈十津川郷の移住民〉という見出しの記事がある。〈奈良県十津川郷の人民は

奈良県の十津川郷という集落が水害で大打撃を受け、生活の基盤を失った住民約2500人が国の支援も受けて北海道に移住して開いたのが現在の新十津川町、というわけだ。移住者たちの故郷である現在の奈良県十津川村を「母村」と呼び、今も交流がある。2011年(平成23年)に十津川村が台風12号で大きな被害を受けた際、新十津川町では見舞金5000万円と住民からの義援金約1000万円を送った。9月6日朝刊社会面の〈母なる十津川村を支援 北海道・新十津川町 水害で120年前移住〉という記事の中で、当時の植田満町長が読売新聞の取材に対し〈母村が危機の時に支援をするのは当然のこと」と語っている。こういう事情なら、町が存続する限り「新」の冠は揺るがないことだろう。
流行現象を指す「ニュー」

「新」のあれこれを調べるうちに、「ニュー○○」も気になってきた。千里や多摩の「ニュータウン」、あるいはホテルニューオータニなど、施設や建物の名に冠せられた「ニュー」は、それ自体とともに長生きしている。
一方、ある分野の潮流が「ニュー○○」と呼ばれることも多い。筆者が学生だった1970年代から80年代にかけて、世の中にはさまざまな「ニュー」があふれていた。音楽では歌謡曲とは違う「ニューミュージック」、出版・学術では浅田彰さんの「構造と力」に代表される「ニューアカデミズム」が流行。世界を見渡すと、60年代から映画界では「アメリカンニューシネマ」、SF小説の世界では「ニューウェーブ」が一時代を画した。映画と言えば日本では戦後の50年代に各社が「ニューフェイス」と名付けた新人発掘を行い、三船敏郎さん、高倉健さんらを生んだ。世界を巻き込んだ第2次大戦が終わり、復興する中で、日本でも世界でもさまざまな新しい潮流が生まれたのだろう。

80年代には「ニューメディア」という言葉も流行した。
1982年(昭和57年)11月23日から朝刊経済面に〈世界ニューメディア事情〉という連載が8回にわたって掲載された。〈世界はまさにニューメディア時代。わが国が日本テレビ(NTV)を皮切りに音声多重放送の実施で先行すれば、イギリス、フランスも既に文字多重放送を実用化し、アメリカは実質的に衛星放送時代にはいっている、など技術革新はとどまるところを知らない。これらメディア先進国の実情を現地に見た〉として、国内外の新技術をリポートしている。

紹介されるのは衛星放送、有料放送、ケーブルテレビ、文字多重放送など放送が中心だが、フランスの電子新聞や、テレビと電話回線とコンピューターを用いた双方向システム「ビデオテックス」も登場する。11月27日掲載の第5回の中には〈日本でも二年後にビデオテックス「キャプテン」が実用化される〉とある。
キャプテンシステムについては79年(昭和54年)12月18日朝刊3面の記事〈電話で呼び出しテレビで情報得る新メディア キャプテンシステム 25日から実験開始〉に詳しい。〈郵政省は十七日、電話とテレビを利用して、好きなときに好きな情報を得ることのできる「キャプテンシステム」(文字図形情報ネットワークシステム)の実験を二十五日から始める、と発表した〉

ある時期、キャプテンシステムはニューメディアという言葉の代表格のようだった印象もある。84年(昭和59年)に実用化されたけれど、さほど普及することなく終わった。上記の記事によれば、サービス内容は以下のようなもの。
〈家庭の電話でキャプテンセンターを呼び出し、欲しい情報――例えば、ニュース、天気予報、スポーツ結果、買い物・料理案内などをリクエストすれば、直ちにお茶の間のテレビに映し出されるという仕組みで、趣味、娯楽から旅行・観光案内まで、質問に答えてくれる〉