「最もメダルに近づいたスキーヤー」皆川賢太郎、100分の3秒差より悔しかったこと
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[冬の記憶]アルペンスキー男子回転 皆川賢太郎
五輪の名場面をアスリート本人が振り返る「冬の記憶」。1956年コルティナダンペッツォ冬季五輪の男子回転で猪谷千春さんが獲得した銀メダル以降、アルペンスキーの日本勢が最も表彰台に近づいたのが50年後の2006年トリノ五輪で4位に入った皆川賢太郎さん(47)でした。(聞き手、東京本社運動部・畔川吉永)

――トリノ五輪をどういう状態で迎えましたか。
けがで苦しんでいたけれど、トリノの2年ぐらい前から少しずつ調子が戻ってきました。迎えた本番、あの時は割と「無」の気持ちというか……。ワールドカップ(W杯)などそれまでのレースはすごく欲深かったのに、トリノの時はとにかく1分から2分間、わずか2本の勝負なんだからそこに全てをかけよう、余計なことは考えないようにしようと思った。とにかく(気持ちから)全てをそぎ落とそうと考えることができました。
――イタリアのセストリエールで行われたレースで、皆川さんは1回目に53秒44で3位。トップは53秒37のベンヤミン・ライヒ選手(オーストリア)でした。
100分の7秒差は、ほとんど「親指(の長さほどの)レベルの差」で金メダルが目の前にある状態でした。本当に金メダルが狙えるくらいのトップ選手との距離感でした。僕のスキー人生であの距離感で2回目を滑るのは初めてでした。
逆に冷静になれたというか。回転はスタートからゴールまで大体70回ほどターンするんですが、コースを徹底的に自分で頭の中で描き続けました。レース前のイメージで失敗するなぁとか、もっと攻めなきゃとか考えるよりも、割と無の境地になれたというか。それで2回目に挑みました。
バックル外れたまま滑走
――2回目は50秒74で合計1分44秒18。その時点で全体3位で残る上位選手は2人でした。フィンランドのカレ・パランデル選手、そしてライヒ選手という強敵でした。
あれはもう、なんていうのかスキーは出た数字が全てなので。僕がゴールしたその時、1番じゃなかったことがまず、すごく残念だった。2回目はもうスタートした直後ぐらいにエッジに違和感があって、実際は(靴を締め付ける)バックルが外れていて、明らかに足がルーズになっていたんです。レースは今でも忘れはしない。ヘアピン(カーブ)があって、そこから緩斜面に入る間に旗門があるんですけど、そこ(レースの前半部分)までは自分は「攻めない」と決めていたんです。多分今までの自分だったら攻めないなんてことはしなかった。でも逆に(コースの)下はめちゃくちゃに攻めました。残り2人がいてパランデルはもう小学校の頃からずっと一緒に競っていて能力も分かっていた。その時はたまたま旗門を片足通過して失格になったけれど、彼が普通にゴールしていれば、(その後のライヒも含めて)僕は5位になっていたと思う。

――メダルまでもう少しだったが、上位の順位は実力通りでしたか。
そう。でもそれよりもあの時は僕がゴールした時点で3位で、イコール金メダル取れないということだったので。僕にとってはそっちの方の事実に重みがあった。やはり金メダル、五輪ではみんなそれを目指してくるので。勝ちたいと思っていましたね。
――結果的に合計で3位のライナー・シェーンフェルダー選手(オーストリア)とは0・03秒差、トップのライヒ選手とも1・04秒差でした。
アルペンは四の五の、言い訳は言えないんです。ジャッジがどうとか、風がどうというのもない。とにかく速いやつが勝ちです。そういうはっきりした競技というのが僕は大好きでした。70回ターンして4~5キロ滑っても、結局最後に100分の1~2秒差で争う。酷ではありますが(笑い)……。
選手は「自分を信じ切って」
――トリノが最高の成績だったが、五輪には1998年の長野から4度出場しました。自身にとって五輪はどういうものでしたか。

スポーツ選手はどうしても賞味期限があるんです。その中で自分がどういう選手なのかということを表現するのに一番ふさわしいのが僕はオリンピックだと思っていて、それが4回。5回目に挑戦しようとして結果的に引退したのですが、やはりオリンピックがないと、自分の人生のレールは伸びなかったと思う。自分の競技人生の節目、節目でマイルストーンになったのはオリンピックでした。
毎年、ワールドカップ(W杯)もあって、契約金も入っていたし選手として活動できるんですけど、自分のレーサーとしての競技人生のレンジが伸びたのは、やはりオリンピックがあったからだと思います。
――ミラノ・コルティナ五輪に向かう選手にかける言葉はありますか。
とにかくもう自分を信じ切ることですね。振り返ることは後でもできる。とにかく今、24時間365日をオリンピックのために徹底的に使ってほしいし、あとはもう徹底的に自分を信じること。五輪独特の景色を見てほしいし、僕では見ることのできなかった景色をミラノ・コルティナで作ってもらいたいですよね。