生湯葉シホの生の声

どうでもいいことが気になり肝心なことはすっぽ抜ける私が探偵だったら

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いま、あまりに自分が情けなくて落ち込んでいる。チェーンの喫茶店に入り、ホットコーヒーを注文したのが1時間半ほど前のことだ。しばらく店内で原稿の仕事を進め、おもむろにパソコンから顔を上げると、思いのほか時間が () っていることに気づいた。

キリのいいところまで作業を終わらせたいけれど、これ以上長居するならもう1オーダーくらいしようと思い、追加注文をするために立ち上がったのがいまから30分前。

ちょうど小腹も空いたしホットケーキでも頼もうかと考えながら、空のコーヒーカップがのったトレーをレジの向かいにある小さなテーブルの前まで持っていく。テーブルの上には使用前の紙ナプキンとプラスチックのマドラーがケースに入れられて並んでいる。

いつものようにそのテーブルの脇に使用済みのトレーを置きながら、ここの返却台やたら小さいんだよなあ、と思う。このカフェはいつも静かで原稿を書いたり本を読んだりするのにちょうどいいので、半年ほど前から足 (しげ) く通っているのだ。お客さんが多くてトレーがいっぱいになっちゃいそうなときってどうしてるんだろう、もっと大きい台にすればいいのに、と私はぼんやり考える。そのまま数メートル移動してレジの列に並びはじめたところで、私の視線はある一点を見つめてピタッと止まった。

写真はイメージです
写真はイメージです

レジのカウンターの延長線上、従業員用のドアを挟んだすぐ隣に3段組の大きな台が設置されており、そこに「返却台」と書いてあるのだ。

……返却台? これが? 私ははっとして、自分がたったいまトレーを置いた小さなテーブルを振り返る。あまりに小さく、トレーを複数置くことは絶対に想定されていないであろう狭いテーブル。

それから間もなく店内を掃除していた店員さんが私のトレーに気づき、無駄のない動きでそれをさっと回収して、「返却台」に置き直すなり持ち場に戻っていくのが見えた。

すべてを理解した私は気まずさのあまりレジの列を抜け、なぜかそのまま真っすぐにお手洗いに入った。個室のなかでいったん両手で顔を覆い、店内を飛び回る () かなにかのようにふらふらとお手洗いから出て、青い顔のままレジに並び直した。ずっと勘違いしていた、と思った。「返却台」ではないところに私は食器を返却しつづけていた、勝手に。半年ものあいだ。

……まあ、落ち込むほどたいしたことじゃないんじゃないの、とやさしい人なら言うかもしれない。店側にとってはたしかにちょっと迷惑だったろうけど、あのお客はここが返却台だと勘違いしてるんだろうな、別に悪気とかないんだろうな、って店員さんもたぶんわかってるよ、と。

ありがとうやさしいね、でも違うんだよ、と私はその言葉に首を振る。自分には常にそういう不注意さというか、散漫さがあるのだ。学生時代からほんとうにずっと。

木蓮の花が咲いていたことだけ覚えている

高校の卒業式の日のできごとだから10年以上前になるのだけれど、いまだに強烈に覚えていることがある。卒業の式典がはじまる直前、同級生何人かと校舎の廊下でおしゃべりをしていたときのことだ。式はじまるぞ、早く多目的ホールまで移動しろ~、と担任が教室から顔を出し、まだ校舎内に残っていた私たちを追い立てた。あ、式の前にトイレ寄っとこ、と私は思い、ダッシュでお手洗いに向かった。

用を足し、急いで手を洗う。洗面台の脇には半分開いた小さな窓があって、そこからは校舎の中庭に植えられた1本の木が見えた。あ、 木蓮(もくれん) の花だ、とそのとき思った。校舎の3階の窓から見下ろす景色もきょうで最後だ、目に焼きつけとこう……とちょっとセンチメンタルな気分になって、私は数秒ほどその風景に見入った。ちょうどいまくらいの季節で、肌に触れる風はすこし冷たかったけれど天気は晴れだった。

そして (きびす) を返し、廊下から多目的ホールまで移動しようとしたとき、私は気づいたのだ。多目的ホールの場所、知らないな、と。

知らない? そんなわけなくないか、と私は思った。多目的ホールというのは卒業や入学の式典にはもちろん、文化祭のステージや有名人の講演といった用途でもたびたび使われていた場所だった(だから“多目的”なのだ)。少なく見積もっても、私は中学・高校の計6年間(中高一貫校だった)で多目的ホールに30回は足を運んでいる。

ホールはそう広くもない学校の敷地内に当然ある。それなのに、私にはそのホールの場所がまるでわからなかった。毎回、同じクラスの友だちや部活の同輩たちに漫然とくっついてホールまで行っていたせいで、場所に関する情報だけが頭からすっぽり抜け落ちていた。

必死にホール周辺の景色を思い出そうとしたけれど、途中で通るどこかの渡り廊下の緑色の床がやたらと (きし) むこととか、童謡に出てくるような古い柱時計が飾られている壁がどこかにあったこととか、教室からチョークの粉の匂いがホールのそばまで流れてくる日があることとか、まったく本質的ではない情報しか思い出せなかった。だれもいなくなった3組の教室と廊下をおろおろと何往復かしていると、担任が走ってきて私を見つけ、迷子の子どもを扱うように腕を (つか) んだ。

「おまえはこういうことになるのではないかと、うすうす思っていた」と担任は真顔で言った。私は道案内されながら担任とともにホールへと走った。すみません、3階からの行き方がどうしてもわからなくて、道の記憶がなくて……などと私がつぶやくと、担任は走りながら「もしも3組の教室のことを言っているならそれは2階だ、 馬鹿(ばか) 者」と言った。

言われてみると、窓から見えた木蓮の花の位置はちょうど私の目の高さほどだったから、たしかにあれは2階だったのかもしれない、と思った。卒業する日に生徒に馬鹿者って言うことあるんだ、先生にとっても思い出に残るだろうな、とぼんやりと感じたのも覚えている。

死体が転がっていても一生気づかない

ほんとうに万事、昔からこうなのだ。連続的に目に入り続けているはずのものの位置や方向、看板の文字といった重要な情報がまったく頭に入っていないか、記憶として定着しない。そのくせ、こんなちまちまとしたエッセイを書いていることからもおそらく伝わるように、局地的な情景だとか誰かが言った言葉、そのとき自分がなにを感じていたか、といったことだけはよく覚えている。

いまこの原稿を書いている冒頭のカフェについても、アルバイトの人が交代で店の前の植木の水やりをしていることだとか、頻繁にかかっているBGMのプレイリスト、店の近くにちょっと変わった業種の企業ビルがおそらくあって、そこの会社の人たちがよく打ち合わせをしにきていること……などは頭に入っている。たぶん、人に話したら「へえ、よく見てるんですね」と驚かれるのではないかと思う。でもその人も、私が半年以上、レジの真横にある返却台の存在に気づかずにいたと聞いたらきっと呆然とするだろう。

そういえば去年も、風情のある小道を街なかで見つけるのが好きだという友だちに、いい雰囲気の小道が〇〇町のこのへんにあるはずだから行ってみて、と教えたら感謝してもらえたのだが、「ちなみにシホさんは『コインランドリーの隣の小道』『松たか子のポスターがあいだの壁に貼ってあるはず』って言ってたけど、あの小道とコインランドリーはけっこうな距離離れてるよ」と告げられた。

まさかそんな、と思ってGoogleマップを開いてみると、たしかに私が認識していたその道はまったくコインランドリーの隣などではなく、あいだにデイリーヤマザキの店舗が挟まっていた。私、デイリーヤマザキのこと「松たか子のポスターが貼ってある壁」として認識してるんだ、と自分でも怖くなった。

その友だちにいま、上記の発言をエッセイに引用させてもらうための許可をとろうと連絡したところだ。彼女はカフェの返却台と高校の卒業式にまつわる私の話を聞くと、こんな感想を返してくれた。「いいじゃん。シホさんがもし探偵だったら、船上パーティーの参加者たちが隠し持っているただならない秘密には目ざとく気づくのに、目の前に死体が転がってるのには一生気づかなそうでおもしろいと思うよ」

思わず笑ってしまった。私が探偵役を務めるコメディー映画シリーズがもしあったら、たぶん応援上映とか盛り上がるんだろうな、と想像する。「違う、後ろ後ろ!」「たしかにそのふたりは生き別れの親子だが……」「いま、そこの壁の絵が入れ替わってたことはまじでどうでもいいよ」「ずっと映ってるよ、死体」「気づいてくれ頼むから」……観てみたいような気もするけれど、途中で呆れて劇場をあとにしてしまう観客のほうがきっと多いだろう。

違う、そんなことは本来どうでもいい。とにかくいま私がすべきことは、食べ終えたホットケーキのお皿がのったトレーを持って席を立ち、今度こそ正しい返却台に置いてから店を出ることだ。いままでほんとうにすみませんでした、という思いを込めた深いお辞儀を店員さんに向けながら。(エッセイスト 生湯葉シホ)

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6518521 0 大手小町 2025/04/10 06:00:00 2025/04/10 06:00:00 /media/2025/04/20250402-OYT8I50001-T.jpg?type=thumbnail

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