地震から9年…熊本城で進む復旧工事で「清正の思い」は解き明かされるか
完了しました
平成28年(2016年)4月16日に起きた熊本地震(本震)から9年が経過した。筆者は熊本で地震に遭遇し、被災して大きく傷ついた熊本城の姿を目の当たりにしている。加藤清正(1562~1611)が築城した熊本城は姫路城、名古屋城と並ぶ「日本三名城」の一つともいわれ、その復旧は歴史ファンとしても注目せずにはいられない。


熊本城では城内に13ある国の重要文化財すべてが被災し、石垣全体の約3割、2万3600平方メートルで崩落や緩み、
甚大な被害から9年で、城を使ったイベントが開催できるまで復旧を進めた関係者の努力には頭が下がる。だが、復旧作業が胸突き八丁を迎えるのは、むしろ、これからだ。
地震の2年後に策定された「熊本城復旧基本計画」は当初、復旧完了まで20年としていたが、その後、計画期間は2052年度までの35年間に延長された。13の国重文建造物のうち、これまでに復旧が完了したのは長塀と

今年度に行われる予定の主な工事は下図の通りだが、後述するように今年3月には本丸御殿の復旧方針も了承された。今後の復旧工事は、32年度に完了予定の

解体進む「第三の天守」
宇土櫓は二つの天守の北西に立つ3層5階、地下1階の櫓。高さは19メートルで櫓としては日本一高く、築城当時の姿を残す城郭の中で姫路城、松本城、松江城の天守に次いで全国で4番目の高さを誇る。明治10年(1877年)の西南戦争直前に大・小天守が焼失してから昭和35年(1960年)に再建されるまで、五階櫓は熊本城天守としての役目を果たし、今でも「第三の天守」と呼ばれている。

熊本地震で
巨大な櫓はいつ、どのように築いた?
宇土櫓をめぐる最大の謎は、これほど巨大な櫓をいつ、だれが、どのように築いたのかということだ。通説では、肥後(熊本県)の南半分を領していた小西行長(1558?~1600)が慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで敗死し、居城だった宇土城(熊本県宇土市)が落城したため、翌年に清正が宇土城天守を移築したとされる。だが、昭和2年(1927年)に行われた宇土櫓の大修復の際の調査で、櫓に移築の跡がないことが確認され、この説はほぼ否定されている。

近年では、移築されたのは宇土櫓ではなく小天守だったという説が有力だ。江戸時代に書かれたとみられる『肥後宇土軍記』には、清正が「宇土城天守を熊本城内に移築させて小天守と称した」という記述がある。
小天守の石垣の底部は大天守の石垣によりかかるようにして積まれており、移築の跡ともみなせるという。清正は宇土城を自身の隠居先とする予定で、慶長13年(1608年)前後には改修工事を行っており、宇土城跡の調査ではその痕跡も見つかっている。清正の急死で隠居は実現しなかったが、清正が宇土城を気に入っていたのは確かなようだ。
だが、熊本城の古地図などを見る限り、小天守は清正の存命中には存在しない。宇土城天守を実際に移築したのは清正ではなく、清正の三男で2代熊本藩主の加藤忠広(1601~53)だったとみられる。移築の時期は忠広が幕府に命じられて領内の城を破却した慶長17年(1612年)から、幕府が武家諸法度を出して大名の居城の補修を厳しく制限した元和元年(1615年)までの間と考えるのが自然だろう。忠広が清正の遺徳をしのび、父のお気に入りの天守を移築して自分の居城に取り込んだとすれば、隠居間近の清正が抱いていた思いも引き継いでいたはずだ。
熊本地震で崩れた清正時代の石垣は、予想していたより薄かった。一つの石垣を二つに割って築城を急いだためとみられ、清正が城の整備を急いでいたことがうかがえる。忠広は宇土城の移築と同時に、城全体の構成を東向きから西向きに変更する大改修を行っている。

清正が整備を急ぎ、その遺志を継いだ忠広が天守の大改修で防御力強化に奔走したことは、豊臣秀吉(1537~98)の遺児、豊臣秀頼(1593~1615)の立場が危うくなりつつあったことと関係があるのではないか。まだ秀頼は大坂で健在だったが、徳川との決戦は近いとみられていた。清正親子は秀頼に万一のことがあった時に受け入れる腹を固めていたのだろう。
石垣の内部から古い石垣が見つかれば…
宇土城から移築されたのが小天守だったとすれば、宇土櫓は最初から熊本城に建てられていたとみるのが自然だ。宇土櫓の様式は大天守や小天守より古く、今回の解体調査では、五階櫓に使われていた約3万枚の瓦のうち、加藤家時代の瓦が12枚見つかっている。

5層の巨大な櫓は当然、天守並みの防御拠点として重視されていたはずだ。宇土櫓という名前がついたのは清正が召し抱えた行長の遺臣が管理を任されたためだとの説もある。豊臣恩顧の大名の遺臣の再雇用も、豊臣と徳川の最終決戦をにらんだ動きだったのかもしれない。
石垣は建物がなくなれば詳しく調査でき、石垣の内部から、さらに古い石垣が見つかる可能性がある。そうなれば宇土櫓がいつごろ建てられ、どのような役割を担っていたのか、さらに精査できる。当時の豊臣と徳川の関係を加味すれば、清正と忠広の思いに近付けるし、少なくとも、熊本城の歴史的な価値が上がることは間違いない。熊本城文化財修復検討委員会の委員を務める名古屋市立大の千田嘉博教授(城郭考古学)は読売新聞の取材に対し、「今回の大規模な修理と調査で、宇土櫓の建築年や修理の履歴が判明すれば、国宝になってもおかしくはない」と語っている。

ちなみに宇土櫓は昭和2年の大修理を経て昭和8年(1933年)に旧国宝(現在の国重文に相当)に指定されている。今回の解体で、昭和の大修理で補強のために入れられた鉄骨の筋交いの位置なども判明した。
重要文化財の補修に鉄骨の筋交いとは乱暴にもみえるが、修理後に櫓が文化財に指定されたことで、昭和の鉄骨も文化財として扱われる。今回の解体調査では、この筋交いがなければ宇土櫓は熊本地震で倒壊していた可能性が高かったこともわかっている。
御殿の絵に秘められた思い

平成20年(2008年)に築城400年事業の目玉として復元された本丸御殿は、熊本地震で床が傾き、障壁画や壁の
今年3月に了承された復旧方針では、西側の数寄屋棟は解体して石垣を積み直し、その他の建物は地震に備えた補強工事を行う。東側の小姓部屋付近は地下の遺構に影響を与えるおそれがあるため、補強工事も見送る。豪華

本丸御殿の昭君之間といえば、秀頼を迎えるために作られたという伝承が有名だ。「昭君」は「将軍」の隠語で、将軍は徳川将軍ではなく、秀頼を指す。清正は大坂を追われた秀頼をこの部屋にかくまい、熊本城が徳川に攻められてもいいように城外への抜け道も用意していたという。
昭君之間の壁やふすまには、前漢(古代中国)の官女から