『べらぼう』で注目…吉原の遊女「瀬川」が超えようとした江戸の“超”階級社会

スクラップ機能は読者会員限定です
(記事を保存)

メモ入力
-最大400文字まで

完了しました

編集委員 丸山淳一

 横浜流星さんが演じる 蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう) (蔦重、1750~97)が「江戸のメディア王」にのぼりつめるまでを描くNHK大河ドラマ『べらぼう〜 蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし) 〜』(総合、日曜夜8時~ほか)。ドラマでは小芝風花さんが演じる吉原の 花魁(おいらん) 、瀬川(生没年不詳)が人生の転機を迎えている。

 瀬川は蔦重と 幼馴染(おさななじみ) という設定で、遊女屋・松葉屋の花魁、花の井として登場した。蔦重が版元になって吉原のガイドブック、細見『 (まがき) の花』を出すことを知った花の井は、売れ行きを伸ばす目玉とするため、細見発行にあわせて5代目瀬川を襲名する。

小芝風花さんが演じる松葉屋の花魁、瀬川(C)NHK
小芝風花さんが演じる松葉屋の花魁、瀬川(C)NHK

 細見が売れて人気が出た瀬川は、市原隼人さんが演じる盲目の大富豪、鳥山 検校(けんぎょう) (生没年不明)から身請けを持ちかけられる。ともに吉原を盛り上げようとするうちに、瀬川と相思相愛となっていた蔦重は身請け話を断るよう提案するが、吉原では花魁との恋愛は禁じられていた。瀬川は身請けを受け入れて鳥山の妻・ 瀬以(せい) となる。瀬以の心が蔦重にあることを知った鳥山に、幕府の不正蓄財の捜査の手がのびる。瀬以と蔦重の恋は成就するのか――というのがドラマの展開だ。

「1億8000万円で身請け」のニュースは浄瑠璃に

ドラマ第7話で描かれた『籬乃花』の松葉屋に掲載された「瀬川」(江戸東京博物館蔵、一部加工、国書データベースより)
ドラマ第7話で描かれた『籬乃花』の松葉屋に掲載された「瀬川」(江戸東京博物館蔵、一部加工、国書データベースより)
『契情買虎之巻』の挿絵に描かれた5代目瀬川(京都大学附属図書館蔵)
『契情買虎之巻』の挿絵に描かれた5代目瀬川(京都大学附属図書館蔵)

 蔦重と瀬川は幼馴染で恋仲、というのはドラマ上の創作だが、蔦重と瀬川は同じ時期に吉原で寝起きし、瀬川は実際に『籬の花』に登場している。

 1400両という大金で鳥山が身請けしたのも史実通り。物価などから大まかに換算すると、江戸時代中期の1両は今の貨幣価値で13万円前後とされるから、今なら1億8000万円という大金だ。それだけにこのニュースはかなり注目されたようで、身請け直後から瀬川は一躍有名人となる。身請けの翌年には「色揚瀬川染」という新浄瑠璃の興行が行われ、2年後には 戯作者(げさくしゃ)田螺(たにし)金魚(きんぎょ) (生没年不詳)がこの身請け話を素材にして書いた 洒落本(しゃれほん)契情買虎之巻(けいせいかいとらのまき) 』が大ヒットする。

 だが、鳥山の座頭金(貸付金)総額が1万5000両(今の価値で19億円)に達し、厳しい取り立てによって旗本が娘を身売りに出したり、戸籍を偽造させられたりして家を乗っ取られていることが明らかになると、2人に対する好奇と羨望は、嫉妬と批判に変わっていく。「鳥山は不正な蓄財や過酷な取り立てで財を成し、瀬川はその汚い金で身請けされて富豪の妻になった。2人とも他人の不幸を踏み台にのしあがった」とみなされ、2人は「金の亡者」のレッテルを貼られてしまう。

書物に描かれた検校(『人倫訓蒙図彙』国立国会図書館蔵)
書物に描かれた検校(『人倫訓蒙図彙』国立国会図書館蔵)

 鳥山は盲人の互助組織「当道座」の大幹部で、幕府は盲人の生業のために高利貸しを認めている。吉原も幕府公認の遊郭で、大名跡である瀬川の襲名にふさわしい遊女となったのは努力のたまものだ。ドラマでは鳥山も瀬川も上品で、芸事や読書をたしなむ文化人でもあり、単純なレッテル貼りには違和感もある。しかし、盲人と遊女という恵まれない境遇にある2人がそこから脱するには金の力に頼るしかなかったのも事実だ。「超」のつく階級社会で、それは吉原や当道座でも例外ではなかった。

吉原が大衆化し、高級遊女は減少

 吉原は元和3年(1617年)に幕府公認の遊郭として今の日本橋人形町周辺に開設されるが、その時点で遊女は「 太夫(たゆう) 」「 格子(こうし) 」「 (はし) 」の3階級に区分されていた。当時の吉原は幕府の評定所(現在の裁判所)に給仕役の派遣を義務付けられており、幕府要人の相手ができる色・芸ともにすぐれた高級遊女を選抜する必要があったためだという。

 太夫は表に出て客引きはせず、「引手茶屋」の紹介を経て客を取る。格子は名前の由来通り、大格子に姿を見せるが、局と違って格子の中に部屋を持っていた。太夫、格子と遊ぶ客は原則として「 揚屋(あげや) 」で宴会をしなければならず、指名を受けた太夫、格子は遊女屋から揚屋にやってくる。この移動は「道中」と呼ばれ、吉原の大通りを練り歩けるのは高級遊女だけだった。

吉原中見世で格子越しに客を呼ぶ遊女(十返舎一九『青楼絵抄年中行事上之巻』国立国会図書館蔵)
吉原中見世で格子越しに客を呼ぶ遊女(十返舎一九『青楼絵抄年中行事上之巻』国立国会図書館蔵)

 吉原が大衆化するにつれて、遊ぶのに莫大な金がかかる太夫や格子は徐々に減っていく。享保19年(1734年)の細見では太夫が4人、格子が65人いたが、約30年後の明和年間(1764~72年)の細見には太夫・格子の料金表が残るだけとなり、事実上廃絶されている。

 だが、遊女の階級は減るどころか、細分化されて増えていく。そのきっかけとなったのは明暦3年(1657年)の大火の後、吉原が浅草千束村(現在の台東区千束)に移転したことだった。江戸の中心からの移転を命じられた吉原は、客足が遠のかないよう、市中の湯屋(銭湯)や茶屋(飲食店)にいた 私娼(ししょう) の取り締まりを要請した。

 幕府は私娼の一斉摘発をしたが、その際に湯屋や茶屋が500人以上の私娼を連れて新吉原に移り、遊女屋を構えたのだ。移転はまず湯屋、次で茶屋と、2回に分けて行われたとみられ、湯屋にいた私娼が散茶女郎、茶屋にいた私娼が梅茶女郎と呼ばれるようになった。

各種資料から筆者作成。時期や呼び名などには異説あり
各種資料から筆者作成。時期や呼び名などには異説あり

 湯屋の私娼は当初はなじみの客もおらず、高級遊女のように客をふる(相手を断る)ことがない。もともと吉原にいた遊女が「袋に入れて振る煎茶と違い、ふることがない粉茶(散茶)のようだ」とさげすんだのが名前の由来という。散茶が属する遊女屋はもともとは湯屋だったので、湯屋のような大きな店構えだったが、次に新吉原に移ってきた茶屋の店構えは小さかった。茶屋の女郎は散茶をさらに水で「うめ」たように貧相だということで、「埋め」が「梅」に転じて梅茶となったらしい。

「散茶」が遊女の最高位に

 だが、散茶や梅茶が大衆化に拍車をかけ、吉原では太夫や格子が完全に駆逐された後、旧吉原の遊女を抑えて遊女の最高位についたのは散茶だった。その後、散茶は呼びだされないと仕事をしない「 呼出(よびだし) 」、昼だけの相手で金三分(今の価値で9万円)が必要な「 昼三(ちゅうさん) 」、将来昼三への昇格が見込まれる「 付廻(つけまわ) し」にわかれ、梅茶も部屋を持つ遊女と持たない遊女に分かれていく。付廻し以上は吉原の高級遊女の代名詞となる花魁と呼ばれた。大衆化が進んでも階級はなくなるどころか、むしろ細分化されていったわけだ。

 抱える遊女の階級によって遊女屋も「 大見世(おおみせ) 」、「 中見世(なかみせ) 」、「 小見世(こみせ) 」の3階級に分かれ、その下には最下層の遊女を抱える「 切見世(きりみせ) 」があった。瀬川が属する松葉屋は最初から大名跡が在籍する「大見世」ではなかったが、太夫や格子が衰えていく中で、花魁を擁する散茶見世へ上がっている。歴代瀬川を高級遊女として売り出すことで、店の格式を上げていったといってもいいかもしれない。

 幕府公認の吉原以外の遊所(岡場所)も江戸に数十あり、摘発をかわしつつ営業していた。岡場所にも「上の上」から「下の下」まで細かい格付けを記した評判記が出版されており、例えば同じ「深川」のなかでも細かく格付けが分かれていた。こちらでも格上げをめざして激しい競争が行われていたのだろう。

松葉屋の格も上げた「江市屋瀬川」

 では、瀬川の名跡は何代受け継がれ、どのように階級を上っていったのか。毎年更新される細見に掲載される遊女のランキングからその軌跡を追ってみる。この試みは多くの歴史学者が挑戦しているが、細見や評判記によって在籍期間が異なり、後世に脚色された経歴が追加されることも多いため、簡単ではない。細見には瀬川が何代目なのかは書かれておらず、諸説があることを最初に断っておく。

 松葉屋・瀬川の名が細見などで確認できるのは享保13年(1728年)前後から。『翁草』などには、たかという女性が夫を盗賊に殺害され、松葉屋の遊女となって先代の身請け以来途絶えていた瀬川を襲名し、偶然に客として松葉屋に現れた (かたき) を討つ話が記されている。事実ならこの「 (あだ) 討ち瀬川」には細見では確認できない先代がおり、2代目ということになる。

 だが、仇討ちの逸話には登場人物の肩書が史実と違うなどの矛盾があり、何より話が出来過ぎている。瀬川が後年有名になったため、先代の逸話が後世に作られることも多く、初代瀬川自体が無名の遊女の逸話をまとめて創作された可能性もある。実在した2代目瀬川は座敷持で花魁ではなく、年季明けまで松葉屋で遊女をしていたという。美貌や若さがない瀬川を大名跡の初代にはしにくいため、あえて謎の初代を創作したのかもしれない。

 瀬川の名前を一気に高めたのは3代目瀬川だ。茶の湯や和歌もたしなむ才色兼備の遊女で、デビューから6年後には商人の 江市屋(えいちや) 宗助に身請けされるが、これは仮の身請け先で、実際は大名家の家老が身請けしたといううわさもあった。「江市屋瀬川」以降、「瀬川」は松葉屋第一の名跡となり、瀬川の評判とともに松葉屋も一流の遊女屋に格を上げていく。

 なお、江市屋瀬川を4代目とみる学者も多いのだが、『べらぼう』では、4代目瀬川は自害し、それ以来不吉な名跡となった、という設定だ。江市屋瀬川の身請け後に瀬川を襲名し、宝暦8年(1758年)に19歳で自害してしまった遊女がいたという説もあるため、ドラマではこの瀬川を4代目としているようだ。

 5代目瀬川は襲名から半年で鳥山に身請けされ、花魁としての評判や人となりは伝わっていない。本好きだったというのはドラマの創作だが、大名跡を継いだ以上は教養があり、芸事もしっかりこなしたのだろう。

『青楼美人合姿鏡』に描かれた読書する5代目瀬川(右)。ドラマ第10話に登場した(国立国会図書館蔵)
『青楼美人合姿鏡』に描かれた読書する5代目瀬川(右)。ドラマ第10話に登場した(国立国会図書館蔵)

 5代目瀬川の身請けが思わぬ結果になったことが影響したのか、瀬川の名跡は一時途絶え、天明2年(1782年)に6代目瀬川が登場したのは5代目の身請けから7年後のことだった。6代目は襲名の翌年に弓弦御用達の武家の養子に入った浅田栄次郎に1000両で身請けされるが、親族の反対で家に入れず、別の元なじみ客と結婚・離縁を繰り返したという。

 7代目瀬川は天明4年(1784年)に名跡を継ぎ、天明8年(1788年)に松前藩主の弟・松前文京( 頼完(よりさだ) )に身請けされたといわれる。文京は俳人で、3月30日に放送された第13回に登場した古川雄大さんが演じる戯作者、 山東(さんとう)京伝(きょうでん) (北尾 政演(まさのぶ) 、1761~1816)のパトロンになる人だ。7代目の身請け後、すぐに8代目瀬川がデビューするが、2年後の寛政2年(1790年)の吉原細見には名前がなく、ほどなくして亡くなったとみられる。

 8代目と9代目瀬川の登場まで間があくのは名跡の吉凶ではなく、吉原の景気が影響しているとみられる。松平定信(1759~1829)による寛政の改革が進み、寛政元年(1789年)には旗本・御家人に対する「 贅沢(ぜいたく) 禁止令」が出されて吉原は不況になった。寛政6年(1794年)と12年(1800年)の大火も追い打ちをかけ、松葉屋は大名跡をたてるどころではなかったのだろう。2度の大火の後に9代目瀬川が登場するが2年後には姿を消し、それ以降瀬川は現れなかった。

 ちなみに5代目瀬川は座頭金の摘発を機に鳥山と離別する。その後、元なじみ客の武士の家に入り、2人の男子を設けるも夫と死別。その後武家の家に出入りしていた大工・八五郎と再婚するが、養子に出ていた元夫の次男が 放蕩(ほうとう) の末に家を追い出され、八五郎と瀬川の家に転がり込んで……という後日談がある。どこまで史実かは不明だが、「老婆」と呼ばれる年齢まで生きていたのは確かなようだから、松葉屋の栄枯盛衰や自分の後の「瀬川」の行く末を遠くから案じていたかもしれない。

残り:1439文字/全文:7364文字
読者会員限定記事です
新規登録ですぐ読む(読売新聞ご購読の方)
スクラップ機能は読者会員限定です
(記事を保存)

使い方
「Webコラム」の最新記事一覧
注目ニュースランキングをみる
記事に関する報告
6493133 0 今につながる日本史 2025/04/02 15:00:00 2025/04/03 13:02:00 /media/2025/03/20250331-OYT8I50131-T.jpg?type=thumbnail

主要ニュース

おすすめ特集・連載

読売新聞購読申し込みバナー

読売IDのご登録でもっと便利に

一般会員登録はこちら(無料)